見出し画像

傷は傷のままに

月曜の朝にエンジンがかからないのは、週末の予定をこなしたものの休息が取れていないから。

今週のタスクが山積みなのを目の当たりにして腰が重くなる。

午前中に用事を済ませようと思ったら、最初の予定が早く終わり二軒目のお店が開いていない。

朝食がまだなのでいつものカフェでクロックムッシュと紅茶のモーニングを注文した。

ガラガラかと思いきや店内は混雑している。やさしいBGMと喫煙室から漂う煙と至近距離に座る知らない誰かの会話と。それが今は心地よかった。

部屋で一人きりの時、その時間が好きでもあり寂しくもある。何をしたっていい自由さがあるのに、ひどく疲れて時間が長く感じることもある。

半年掛けて自分のホロスコープと向き合ってきた。見えない「心」というものを可視化していく作業だった。

そのおかげで自分の思考と行動パターンを理解しつつある。ただその次のステップに戸惑っている。

これからどうしたらいい?

そんな風に疑問を言語化してわかった。ここから先は自分でどうにも出来ない領域なのだ。誰かと共同で作っていくものだから。

そもそも私は「対等」な人間関係を作れた経験が少ない。

親や近しい相手は揃って無意識に高圧的だった。学生時代からのいじめとパワハラも「対等」な関係性ではなかった。

幸いなことに今周囲にいる数少ない友人や仲間とはよい関係を作れていると思う(自分が思っているだけだったら悲しいけど)。

加島祥造の「求めない」が私にとってのバイブルで、そのタイトルがすべてだと思う。友人には「求めない」し、一緒にいると楽しくて何かあれば心配する。それだけだ。

それ以上の深い関わりを持とうとするとなぜへりくだるのだろう。これはもう自分の癖のようなものだ。どうしたらトラウマから解放されるんだろう。

心理士がこれまでに6人、3年以上のセッションを重ねた。反りが合わない人もいてもう疲れてしまった。

傷を傷のまま受け入れる。治そうとするからおかしくなるのかも知れない。障害も完治はしないから、なだめすかして付き合っていくしかない。それと同じなのかも。

「トラウマをなおす」ということも、結局のところ「求める」行為なのだ。

「癒す」じゃなくて「治す」ことを求めていたんだな。

「相手に非を認めて欲しい」

そう思ってた。

だけど、それがどんなに難しいか。

誰だって自分の過ちを正当化しようとする。私だってそう。

そっか。

謝って欲しかったんだ。怒ってたし、悲しかったし、何よりいつも孤独で寂しかった。そのことに一人で耐える苦痛に押し潰されそうだった。

でも。人は簡単に頭を下げられない。自分で自分のしていることをよくわかっているから。

一方で父も母もいじめた子もパワハラ上司も、みんな怖くて吠えてたんだと思う。彼らも自分の居場所を勝ち取ることで精一杯だったのだろう。

許すとか許さないじゃなくて。私も、彼らも、人はみんな不器用で不完全だ。

それを笑い合えたなら。人のせいにせず、完璧じゃない自分への悔しさをバネに少しでも成長出来たなら。

歳を取るごとに失っていくばかりだと嘆いていたけど、経験も思い出もどんどん増えていく。

残り時間が少ないのじゃなく、輝きを増していくのだと信じて。

傷が勲章になるくらい、自分をいつか誇りに思えますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?