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手記_200625

つまり言いたいことは、「ある素晴らしい考えを支持している」というポジションを、マウンティングのために使ってはいないか、ということです。特に、自分を社会的弱者だと感じている人こそが。

共感資本主義であるとか、資本主義に代表される欧米的な価値観から距離を置いて、全体主義や調和に基づく東洋的な価値観に回帰しようではないかなどと、誰に語って聴かせるわけでもないが何度も自分に言い聞かせて、自分というものの特別さ、聡明さをかさ上げしていたわけだけれども、

ぶっちゃけ、それは、資本主義的な、王道的なレースで負けたから (勝てそうにないから) 、そこで傷ついた自分を回復するために、そういった思想にすがっているに過ぎないのではないか。

つまり、そういった共感資本主義だとか、東洋的なものの考え方だとかが、本質的であるかどうかなんてことは、本当はどうでもよかった。それは単に、世間に対する逆張りの材料でしかなく、例えるならばマイナーなロックバンドに陶酔するポーズを装って流行歌に踊らされる人々を見下そうとしたり、変わったことをした有名人にTwitterでどれだけウィットに富んだ石を投げられるかを競うようなことと、同一直線上にあることなのではないか。

自分は、これからの世界がよりよいものになることを祈るポーズをとることで、その実、資本主義社会で成り上がれなかった自分を慰めているだけだったのだ。自分の中で根本的なパラダイムシフトなど、ハナから起こっていなかった。なんのことはない、ただ自分も上へ上がりたかった、そのための手段を探していた、それだけだ。

しかもこの事実すら、なんら珍しいことじゃない、素晴らしい功績を残した人に弱い者がすがってその功績をさも我が物顔で振りかざす、いわば小判鮫であるとか金魚のフンであるとか、お決まりの言い回しがあるほどごくありふれた事象なのだった。

さて、そこまで自分という人間の矮小さを穴が空くほど見つめたあとで、

それでもそこに残った一欠片のなにかがあるだろう。

それが、本当によりよい未来を願う、純粋な気持ちなのだと思う。

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