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過去はかんたんに書き換わるし、今も大して変わっていない。

わたしは小さい頃を全然覚えてない人なんだけど、先日母から藁半紙を綴じた文集が送られてきた。旧家を整理したときに見つけたらしい。

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当時は「これ取っといてどうするの……??」と意味がわからなかったけど、息子くんが生まれた今、わたしも将来こんなふうに取っておくだろうな。わかっちゃった。いつか送ってやろう。

日に焼けた冊子は、小さいけれど我が家とわたしにも歴史があるんだと重みを感じる。

「こんなの書いた覚えないなぁ……。」

感慨深く読み返した。


姉のだった。


過去はかんたんに書き換えられる。

後日、ちゃんと自分の文集が送られてきた。

ここ最近、定期的に恥ずかしい思い出が送られてくる。両親が保管していたわたしの文集やら宿題やらなんかの大会のメダルやらだ。お土産や孫へのプレゼントに忍ばせて送られてくる、行き場のなくなった過去の残像プレイバック。

「今さらこんなのどうしたら!!!」って感じだけど、わたしも将来捨てられないだろうってことがわかってしまったから、血は争えない。仕方ない、とりあえず読んでから押し入れにしまおう。供養。鎮まり給え。

もちろん内容は覚えていないのだけど、小学生のとき、作文の宿題は題名と最初の文が決まればあとは(ふんいきで)いけるって思ってたのを覚えている……。

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だから、書き出しは今とあんまり変わってなくて、ほとんどしっくりきた。人ってそんなに変わらないんだな……。過去はかんたんに書き換えられるけれど、今は大して変わってない。あと字の汚さも成長してない!今日まで何してきたんだわたし!歴史の軽み!


でも、それでいいんじゃないかな、と思う。

書くと、楽しい。
気持ちがちょっと楽になったりする。
わくわくする。

たぶん、それだけでいい。

好きな言葉を好きなように組み合わせて、物語を創ったり、伝えたいことを記すのは最高だ。そういうのを読むのは楽しいし、わたしは好きだ。たぶんずっと好きだし、これからも小学生みたいに書きたい。

インターネット文学の裾野は宇宙やぞって気持ちで、誰かを傷つける目的じゃなければ自由に、これからも好きに、書いていきたい。

おわり。


(以下原文ママ)

ぼくのケンタロス

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ぼくはこのあいだポケットモンスターのきろくをけした。

りゆうはなかなかクリアできないからだ。そのときにあばれ牛ポケモンのケンタロスといポケモンをお兄にあづけた。

ところでポケットモンスターっていうのはモンスターボールでポケモンをつかまえながらかく町のジムをクリアしていくゲームだ。

きろくをけしてあるていどクリアしたらかえしてくれるってやくそくだったのにお兄はこのケンタロスはもらったんだっていってなかなかかえしてくれない。

「かえしてよ。」ぼくはお兄をどなりつけた。

しかし「こいつをそだてるのに二十二万円もかかったんだ。」といっていいわけする。

どうせゲームの中のお金だろ。二十二万円もあったらアメリカいってステーキくってるよ。まったく。

お兄はむかしからケチというすごくいやなものをもっている。

あのケンタロスはサファリゾーンで二千円もつかってやっとつかまえたのに。

お兄は「おれにかったらかえしてやる。」といっているけどぼくがよわいのをしっているくせにいやみなやつだ。

しかしがんばってレベルを上げてお兄にちょうせんしたがコテンパンにされてしまった。

くっそ〜ぼくは心の中でおもった。

さらに心の中でさけんだ。「ちょっとはケチなくせなおせー。」といった。あのとき心の中じゃなくどなっていたらきっとぼくもコテンパンにされていただろう。命がたすかったきぶんだ。あとでぼくはおもった。

しかしあとになってお兄が「ケンタロスかえしてやろうか。」といいだした。やったーついにねんがんのケンタロスがかえってくる。けれどちょっとむかついたのは「こいつつかわなくなったからかえすよ。」なんていうんだ。

ぶざけんじゃねーよぼくは心の中でどなった。しかしケンタロスがかえってくるのはうれしい。

だがまぎわになって「つかうかもしれないからぶんしんな。」といいだした。さっきいらないっていっただろ。おれのケンタロスをなんだとおもってんだ。ケーブルをつないでこうかんのじゅんびをはじめた。まずこうかんするポケモンをもってポケモンセンターのつうしんケーブルクラブにいくそしてレポートをするさいごにトレードセンターへいってつうしんをはじめる。タマムシシティのスロットゲームコーナーのおんがくがながれる。

そしてケンタロスをとりかえしたあとこんなケチな兄とつきあっていくのかとおもった。

待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!