野安の電子遊戯工房 ~いまゲームを語るうえで必要なのは、「ゲームの定義の拡張の歴史」なのかもしれない、という話~


 いまでは、テレビゲームはひとつの研究対象としてアカデミズムの世界でも取り上げられるようになっておりまして、学者の方々がいろいろなアプローチでテレビゲームを研究した書籍が、たくさん書店に並んでいます。攻略本コーナーではなく、PC技術書コーナーの脇にあったりしますね。

 最近、それらの本をちょこちょこと読む機会があるのですが、読んでいて感じるのは、「アカデミズムの視点から語るにあたり、いろいろと混乱した状態にあるのかもしれないなぁ」ということだったりします。

 テレビゲームとは何か?

 という根源的な部分の定義を、たぶん、うまく決めることができないからでしょう。テレビゲームを作ったり、売ったり、解説したり――と、ビジネスの現場でテレビゲーム文化に接してきた者たちにとっては、ゲームとは何か? という定義の部分は「言わずもがな」であり、「言わぬが花」でもあり、意図的に語らないままにしていた領域なのですが、そんな曖昧さが、本来ならばひとつひとつの言葉をきちんと定義した上で知見を積み重ねていくはずのアカデミズムの世界でも、うまく取り扱えていないのかもしれないなぁ、と思ったりしている昨今です。




 テレビゲームとは何か? という定義は、ものすごーく難しいんです。身も蓋もない言い方をしてしまうと、「そんなもん、誰かが勝手に決めていいもんじゃねーよ」が正答になるからです。

 「オレは、こんなものはゲームとは認めない(認めたくない)!」

 そんな感情を抱くことは、よくあることです。お金をブッ込めばどうにかなるガチャ系のゲームなんか、ゲームと呼ぶべきものじゃねーよ! みたいな意見を持つ古参ゲームユーザーは多いでしょうし、ひと昔前は「Wii Fit」で体重計に乗り、日々の体重の変化を楽しんだとしても、そんなものはゲームと呼ぶべきではない! と思っていた人は多いです。20~30年前にさかのぼれば、ただレベルを上げていけばクリアできちゃうRPGなんてものは、ただの単純作業を続けるだけの娯楽であって、とうていゲームじゃない! という意見もあったんですよ。

 そういうことを言う人は頭が固い、と言いたいわけではありません。自分が思っている「こういうものこそがゲームだ」という枠があって、そこからハミ出たものを「ゲームじゃない(ゲームとは呼びたくない)」と感じるのは、きわめて自然なことです。汗だくになって身体を動かすタイプのスポーツを楽しんでいる人の中に、あまり体を動かさないタイプのスポーツ(ダーツとか、ビリヤードとか)を、「あんなものはスポーツじゃないよね」と心のどこかで思っている人がいるのは、けして珍しいことではないでしょう。

 とはいえ、ダーツもビリヤードも、れっきとしたスポーツだと感じている人がたくさんいるわけで、その事実を無視するわけにはいかないのも事実。だから「自分は、そんなものはスポーツだとは認めないけど、それをスポーツだと感じている人もたくさんいて、世間一般ではスポーツとして認められている。それは認めよう」という形で、自分の中に折り合いをつけることになるわけです。

 ゲームも同じです。

 オレは、こういうものがゲームだと思っている! そこからハミ出たものはとうていゲームだとは認められない! と思っていながらも、だけど世間一般ではゲームとして楽しんでいる人がたくさんいて、それは世間ではゲームだと認識されているから、その事実は認めよう――みたいな形で、それぞれが心の中で折り合いをつけているんです。

 このあたりの心の中のことが、さきほど書いた「言わずもがな」であり、「言わぬが花」であり、ゲームユーザーたちが曖昧なままにしている、意図的に放置している領域なのですよ。

 それぞれのプレイヤーが、「オレが思うゲームとは、こういうものだ」という原理原則を持っているけれど、それは各自でバラバラです。ゆえに、テレビゲームとは何か? それを厳密に定義してしまおう! ここからここまでテレビゲームと呼ぼう! と誰かが決めてしまうことを避けているのです。そこをハッキリさせようとすると原理主義同士の激突になってしまうので、あえて曖昧なままにしているんですね。




 原理主義者同士が激突したっていいじゃないか! 議論の末に「こういうものがゲームだ」と結論を出してしまったほうが、スッキリするじゃないか!

 という意見もあろうかと思います。

 テレビゲームを文化論として語るならば、それは正しいのかもしれませんが、テレビゲームを産業論として語るとき、それはきわめて危険な考え方なんですよ。

 なぜならば、テレビゲームとは何か? を定義しないままにするという曖昧さこそが、テレビゲームという文化が発展する原動力だからです。

 テレビゲームの歴史は、これまでにない「かつてない体験」を提供し続けてきた歴史でもあります。それによってユーザーに新鮮な感動を与えることに成功し、それがテレビゲームが廃れることなく進化・発展を続けてきた原動力になっているんですね。

 ゲームが文化として進化・発展するためには、「こんなもの、ゲームとは呼べないよ(呼びたくないよ)」と古参のゲームユーザーが叫びたくなるようなまったく新しいソフトが次々に出てくることが、テレビゲームという産業の発展を支えているという側面があるのです。

 だからテレビゲームの発展を望むのであれば、「オレは、こんなものはゲームとは呼ばない(呼びたくない)」と感じるような、まったく新しいタイプのゲームの登場を心から歓迎しなければならないんです。 

 ゲームユーザーは、そのことを、心のどこかで無意識のうちに理解しているんですよ。

 だから、オレはこういうものがゲームだと思っている! そこからハミ出たものはとうていゲームだとは認められない! と思っていながらも、それらは世間ではゲームだと認識されているから、その事実は認める――といった形で、それぞれが心の中で折り合いをつけるんです。テレビゲームとは何か? を定義しちゃうとロクなことにならないから、そのあたりは「言わずもがな」「言わぬが花」なんだよね、という心の着地点を持つことにするわけですね。




 わたしは、テレビゲームに関する文章を商業媒体に書くことを仕事にしてきました。

 なので、テレビゲームとは何か? という問いに対する答えを出すことなく、そこは曖昧なままにしておこうよ! 言わぬが花だもんね! というスタンスに立って、いろいろなものを濁したまま文章を書いてきました。そこは濁したままにしておこうぜ! という読者との共犯関係を結んでいたともいえます。

 アカデミズムの立場から書かれたテレビゲームの書籍を読んでいて、いろいろと混乱した状態にあるのかもしれないなぁ――と、わたしが感じるのは、ゲームとは何か? をきちんと定義しようとするところから論がスタートしているからかもしれません。

 それが悪いわけではないです。アカデミズムの世界では、定義しないと論が始められないですからね。

 とはいえ、本来は曖昧なままにしておくほうがいいんだけど、論を始めるために、あえて定義させてもらいますね――といったスタンスならばともかく、テレビゲームとはこう定義されるものだ! なぜなら、わたしがそう思ったからだ! といった上から目線のスタンスで切り込んでくると、おいおいちょっと待てや! と感じたりするわけです。先日の「ゲンロン」のゲーム特集が炎上した理由が、それですね(笑)。

 アカデミズムの視点からテレビゲームを語るときは、たぶん、そのあたりのバランスが難しくて、ゆえに、読んだときにちょっとだけ混乱しているように、わたしには感じられたのでしょう。




 というわけで、今回のコラムには結論はありません。わたしの感想文みたいなものですから。

 とはいえ、テレビゲームをアカデミズムの視点から語るなら、それらの議論の底本となるような、たとえば「テレビゲームの定義の拡張の歴史」といった書籍が必要なのかもしれないよなぁ――と思ったりしています。

 斬新なゲームが出たとき、こんなものはゲームじゃない! という声が起き、それが消滅していくという歴史こそが、じつはゲームの歴史として大事なんだよね、みたいな本ですね。そうやってゲームは定義を拡張し続けてきたんだ、みたいな本といいますか。

 なんだろう。こういうのを書くのは、もしかしたら30年にわたってゲーム界隈にとどまり続けてきた、わたしの仕事なのかもしれませんね。趣味としてやるには作業量が膨大なので、この無料公開のnote上でやるつもりはありませんけれど(笑)。

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