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綺麗事でご飯は食べられないと言うけれど

人間がAIに追い抜かれるとき

1ヶ月ほど前、Twitterで「AI(人工知能)がCTスキャンやMRIの画像を解析して癌の可能性を指摘し、患者を病理検査したところ実際に癌であることが確定した。ところが、後から専門医が画像をいくら目視しても、なぜAIが癌だと判定したのかわからなかった」という趣旨のつぶやきが話題になっていた。(参照元

これに対して「AIが医者の仕事を奪う」とか「機械に人命を委ねてよいのか」といった批判的な意見も出ていたし、そういった気持ちも当然わかる。ただ、僕はこのつぶやきを読んで、単純に「すげえ」と感心した。

チェスや囲碁ではとっくに人間の頭脳はAIに敗北している。将棋もかなり危うい。医療の現場で数十年にわたって何百人、何千件という患者を診てきた医師の経験と勘が、数日間で何百万件、何千万件というデータを学習した機械に追い抜かれたとしても不思議ではない。

それは人間の敗北ではなく技術の進化だ、と僕は受け止めた。

古くて新しい聴診音という領域

このつぶやきから僕が最初に連想したのは、「ネクステート」と名付けられた聴診器デジタル化ユニットのことだった。

誰でも内科受診や健康診断で、医師に聴診器を胸に当てられた経験はあるだろう。そしてそれが心音や呼吸音を聞くためのものだということも想像がつくと思う。それらの音から、体の異常を検知することができるだろう、と。

でも、想像してみてほしい。そこで医師が聴診した心音や呼吸音は、どうなってしまうのかを。そもそも、心音や呼吸音が正常か異常かの判断基準を、医師はどうやって身につけたのだろうかを。

そこには何の魔法も秘密もなく、聴診は医師が職人芸のように「経験と勘」で属人的に習得するものだ。聴診された音も録音されることはなく、その場で聞いたひとりの医師の耳に残るだけだ。

医師の技量によって聴診で病気を早期発見できることも多い一方で、医師も人間である以上、異常があっても聞き漏らしてしまうこともある。得意不得意もあるし、高齢になれば聴力も落ちる。

そこに目をつけた医療ベンチャーが開発したのが、既存の聴診器に取り付けてデジタル化するためのユニットだ。聴診データを録音・集積し、遠隔地の専門医師が聞いたり、複数の医師で判断したり、AIで解析するための取り組みを始めているのだ。

これによって、過去には考えられなかった「膨大な聴診音データをAIが解析して、人間では検知不可能だった病気を判定する」ことが可能になるかもしれない。

この話を聞いたときも、僕は純粋に「すげえ」と感心した。まさに「ゲームのルールを変えてしまう」話だ。

AIが書いた文章に感動してはいけないのか?

この夏に僕はnoteで文章を書くようになった。書きはじめてすぐに圧倒されたのは、noteというプラットフォームに毎日掲載されている文章のボリュームであり、書き手の数であり、その熱量だった。自分も含めて、これだけの人が、毎日、日本語で、それぞれの想いをアウトプットしたがっているのか、と。

なかでも顕著なのは「お題」が出されたり、「コンテスト」が開催されたときだ。自分も書き手なのでよくわかるが、自発的に「書きたいこと」が湧き出てくる人は少ない。それよりも「これについて、いつまでに書いて欲しい」という「依頼」を受けた方が、俄然モチベーションが湧きやすいのだ。

ほんの一握りの才能あるスター作家を除いて、ほとんどのユーザーの原稿は数人だけに読まれて、入賞もせずに終わる。ただ、それが辛いと思う書き手は、そもそもnoteで活動を続けないだろう。誰かに読まれたり評価されたりすることは「結果として」ついてくるかもしれないけれど、純粋に書くことが楽しいから、書いているのだ。

実際、「読み手」としての自分の行動を振り返ってみれば、1日に数件の記事を読むかどうかで、他のユーザー全体が日々投稿しているペースに追いつくことは不可能だ。

でも待てよ、と僕は思った。

人間が書き、人間が読む、という1対1の関係だけが唯一の正解なのだろうか?

例えば、僕が昨日、何度も読み返して心が震えた感動的なnoteのエッセイについて、後から「実はこれはAIが書いたものでした」と言われたら、僕は「あの感動を返せ」と憤慨するだろうか?

いや、少なくとも僕はしない。むしろ「そのAIが書いた他の作品を読ませてください!」とリクエストするだろう。

逆はどうだろう。僕がこうやって書いている文章を、AIが読んで、何らかの評価やフィードバックをしてくれたとしたら、僕は「そんなの要らない」と思うだろうか?

うん。嫌だとまでは思わないけれど「あってもなくてもいい」くらいの感じだろう。純粋に書くことが楽しくて書いているのだから。

では、自分が書いた文章に対して、AIが「サポート」つまり、お金を支払ってくれるとしたら?

AIのために文章を書いてはいけないのか?

積極的にありがたく頂くだろう。それどころか、もし内容によってAIから支払われる価格が大きく変わってくるとしたら、AIに高評価を受けるための作文をするかもしれない。検索エンジン最適化のように。僕はそれを「お題」として捉えるかもしれない。

そんな風にAIに評価され、効率的に金銭を得ることを目的に人間が作文する世界を映画「マトリックス」のようなディストピアだと捉える意見も多いだろう。

ただ、そこで思い出してほしい。人間には真似ができないボリュームとスピードで学習を続け、専門医にも見えないような癌を発見するようになったAIのことを。

もしかしたら、僕の書く平凡な文章のどこかから、自分自身では感知できない「人間的」な何かを学び取って、AIが僕たちを感動させる文章を生み出すかも知れない。そのためにAIが人間に何を求めるのか、僕たちにはたぶん想像できない。

僕が思いを込めてひねり出した比喩や情景描写はAIにとってどうでもよくて、単に句読点の数とか、漢字とひらがなの比率だけを計測されているかもしれない。もしくは、文中に出てくる「あ」の数を数えているだけかもしれない。AIの心の中はブラックボックスなのだ。

それでも、AIがnoteユーザーの膨大な作品群を解析することでベストセラーとなる作品や、社会的に価値のあるデータを生み出したとしたら? その売上から、書き手として参加したユーザーに利益が配分されるとしたら? そしてその金額が、数百円や数千円ではなく、ベーシックインカムになりうるレベルに達したとしたら?

僕はそれを純粋に「明るい未来」だと捉える。

これまで経済的に価値が低い(または無い)と思われていた人間の活動の中にテクノロジーが新しい価値を「発見」し、それによって個人が「やりたい」と思う活動を真摯に行えば、生計を立てることができる社会になるのだから。

それは創作活動だけに留まらない。ランニングが好きな人は、走ることで。人と話すことが好きな人は、会話で。眠ることが好きな人は、睡眠で。それぞれが「これをやりたい」と思うことを通して、経済活動に参加できる社会が成立するとよいな、と心から思う。

ゲームのルールを変えてしまおう

もちろん、週に5日は通勤して8時間オフィスでデスクワークをすることが好きな人もたくさんいるし、それも「やりたこと」のひとつとして尊重されるべきだ。サービス、小売、医療、介護など、AIだけで単純に置き換えられない業種も多いだろう。

ただ、どの領域でも「その活動によって生み出される真の経済価値」は少しずつ変わっていくだろう。むしろ「純粋化する」と言った方が適切かもしれない。

どんな進歩にも必ず良い面と悪い面がある。議論はたくさん必用だけれど、テクノロジーの発展そのものを止めることはできない。だからせめてその良い面として、今はまだ一部の成功者のための「好きなことをして生きていく」というフレーズが、社会の誰にとっても当たり前になり、稼ぐことのハードルが限りなく下がることを僕は願う。

忙しさにかまけて、僕たちは労働と生活と目的と手段を混ぜこぜにしてしまいがちだ。

そこから抜け出すためには社会というゲームのルールを変えることが有効だし、たぶん、そこに参加することはとても面白い。

綺麗事でご飯は食べられないと言うけれど、そもそも何が綺麗事なのかは僕たちが自分で決めればいいのだ。

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