日記じゃないやつ - 書く

自分の表現が誰かを傷つけるようなことがあれば本当に最悪だなと思う。だけどなにかを発する以上、絶対の絶対の絶対にだれをも傷つけ得ないという約束のもとに存在できるものなんてあるんだろうか。ない、と思う。いや、ないでしょう。ただ、できる限りその可能性を小さくする努力は常に細心の注意を払ってなされるべきである、そういうことを考える。やってしまった、と思うとき、「本当に気づいてなかった?」「あのとき心の奥の奥の奥では“これくらいなら”と思っていなかった?」そう問われたら。

自分が100%潔白なんてあり得ない。それは苦しい事実だけど、でもせめて問いに対して目を逸さずに向き合える自分でありたい、あらなくては、と、思う。

わたしはやっぱりたぶんまだいろんなことから逃げているのだろうなということを最近はよく思う。いろんなことを誰かやなにかのせいにしている。そしていろいろの上手くいかないのをさらにそのせいにしている。こうして書いてみるとひどく滑稽。思考を書き起こしてみると大抵のことは滑稽。わたしだけかもしれないけど。いつか誰かがなにかに「自分を生きる覚悟ができてはじめて本当の人生がはじまるのだ」ということを書いていて、それはそうだろうなと思うけれど、そういうことでいうとたぶんわたしの“本当の人生”はまだはじまっていないのだろうな。そして一生はじまることのないまま終わるのかもしれない。

文章を書くとき、先回りして予防線を張ってしまうことがある。「〜と思われるかもしれないが」みたいなやつ。それはたしかに文字通り予防線で、自分を守るためには必要だったり有効だったりする場合もあるだろうと思うけれど、でもあまり面白いことではないなと思う。潔くないし、リズムが滞る感じがする。何より伝わらないことを前提とした書き方だからあまり気持ちがよくないというかちょっとどうしてももやっとする。文章全体が弱まる感が否めない。そういうことを今回原稿を書きながら考えた。そうしてたぶんこれまではずっとだけどそういう予防線をあちこちに張っていたような気がしていて、でも今回は勢いのある強い文章である必要があるように感じているから、予防線をあちこちに張りたい気持ちを抑えて、その一切を排除したのだった。

なぜこんなのを書いているかというと、原稿の確認の返事が来なくて、いつもとても早いのに、あれあんまりだったかな大丈夫かな、という不安をここで紛らわそうとしているのだった。

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