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柔軟に生きるの練習中

最近ありがたいことに、
トランスジェンダーの方とお話する機会があり
私にとってその方々との出会いがものすごく自分にとって学びの連続。

少しずつ自分の身体への嫌悪も薄れていたものの、
未だ抵抗があり
はっきりとした性自認ができずに居たけれど

お話を聞かせてもらう中で

「違うなと思ったらたら方向転換すれば良いんだし」という言葉を聞いて、

ああそれくらいでも良いんだ、
と肩の荷が降りたのがわかった。

そのおかげで自分の中で、
今この瞬間から女性として生きてみようかな、と重たくない決心をすることができた。

これまで作り上げてきたのも自分自身なのだから、
これからどうしていくかも、
自分自身でいつでも選べるのだ。

例えるなら、
手にせっかく切れ味のいいナイフを持っているのに、
なぜか自分ではそれを使うことを許さず
素手で枝を折ろうとしたり、
歯でかじって枝を切ろうとしたり
ジタバタもがいている。
ただ素直に使えばそんなに難しいことではないのに、事を複雑にしている。

そのナイフ自体には善悪が備わっているわけではなく
全ては使いようだし、
自分次第でどうにでも使うことができる。
お魚を捌いてもいいし…
(ナイフじゃなくてもうちょっと優しい例えがあればいいなと思ったけど思いつかない笑)

せっかく持って生まれたものなのに
自分で制限をかけて使わないことで
行動範囲や言動を狭めている
自分で自分のことを不自由にしている

男でも女でもないという自分で作ったポジションが狭すぎて苦しかったけど、
どちらに振れることも好きに許していけば
動ける範囲が広がっていく

死ぬ時には何も持っていけないのだから
自分のあらゆる制限をとって
自由に楽しませて
たくさん経験させてあげればいい。

自分の性とぶつかり
自分の生命と向き合ってきた人たちは本当に言葉に重みがある

自分が悩んできただけに心に染みる

性と向き合うことは自分の生命そのものと向き合うことであり、
本当にしんどいことだと思う。

見ない方が楽であるし、
本気で生きる覚悟がないとできないこと。

でも見ないと見ないで自分のなかに蓋をしているものがあるから、
結局どこかで不和が生まれる。
それもそれでしんどい。
向き合わざるを得ない。

それだ大変なことだから、
その人たちが
ただただ、自分の経験を語ってくれるということが、自分の学びとなり

その人がその人らしく堂々と生きていてくれることが、そのまま私の希望になる

改めて自分の性と向き合うことは
自分の生命と向き合うことそのものだなと思い知る。

男であるか女であるかということが大事なのではなくて
何かの枠に当てはまるかどうかが大事なのではなくて、
その人がその人らしく、幸せに生きるということを追求するということ。

ジェンダーに関わらず
100人居たら、100人"違う"という柔軟さを持つということ。
自分をそのまま認め、他人に押し付けないこと。
差別でも子育てでも、全てに共通すること。

人生のどんなことも、
自分次第でどうとでも捉えることができて、楽しく面白がって生きることができる。
自分で全て決められるし
自分さえ納得すれば良い。

もっと気楽に、
もっと流動的でもいいのでは無いか。

どうせ生きるなら楽しく、
自分のことを最大限に活かして生きたい、
と素直に思えた。

自分の気持ちに正直に生きている人と話すのは心地よい。

自分が偽って隠して生きていたから
周りの人たちとも摩擦を生んでいただけで

自分が何の仮面も被らず
素のままで生きようと決めたら、
自然体で生きている人が見えてきた。

別に自然体で居ても安心な人間関係があるのだなぁと知れて嬉しい。

自分のあらゆることを許すことで
他人を受け入れる器も自然と広がっていく。
まずは自分を自由にさせていくことから。

自分の生き方を尊重し
他人の生き方も尊重していく

優しく背中を押してくれる強い人たち、
ありがとうございます

全ての人に理解してもらう必要はないけど
自分が納得できる生き方をしていきたい。

限りある人生を面白がって生きていきたい。

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#日記
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