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【歌い手史2006】ニコニコ動画の誕生 ゴムのおっくせんまん 遊びの如く、祭りの如く【歌い手史を作るプロジェクト】


◆ニコニコ動画の誕生


 2006年。

 右からコメントが流れ、左へ消えていく。ときには本来見るべき動画を覆い隠すほど、“弾幕”のごとくコメントが流れる。一見すると本末転倒のような珍妙なサービスは、この年に生まれた。

 12月12日。この日、動画共有サイト・ニコニコ動画がサービスを開始した。


 ニコニコ動画については、あまり説明はいらないだろう。動画の上に載せるかのようにコメントできる動画共有サイトで、かつては日本のネットカルチャーを牽引する勢いがあった。

 このサイトを誕生させたのは、ニワンゴという会社だった(ドワンゴの子会社。のちに吸収合併)。ドワンゴのトップ・川上量生らをはじめとしたメンバーが、2006年上旬ごろ、新たなサービスを作ろうと考えはじめたという。

 川上は、今でこそ知名度が少し下がったが、割と知られた実業家・クリエイターである。

 ネットでは、2016年の宮崎駿を取り上げたNHKスペシャルで、ゾンビのようなCGを披露して宮崎に「極めて何か生命に対する侮辱を感じます」と言われたことで知られている。

 彼は京都大学卒業後、IT会社に入社したが、倒産したためドワンゴの起業に踏み切ったという。

 コミュニケーションの不器用さが目立つ一方で、行動力があった。着メロなどの事業をしながら、新規事業としてニコニコの構想を練っていた。

「ひょっとしたらYouTubeとかに勝てるぐらいにならないかな。ミクシィぐらいのブームを起こせないかな」

(当時のメンバーの雰囲気について。佐々木俊尚『ニコニコ動画が未来を作る』アスキー、2009年)

 サイトを新たに作るのは困難なことだが、当時の彼らには勝算があった。2ちゃんねるのユーザー層——言い換えれば当時いわゆる“オタク”とされていた層からの需要が期待できたからだ。

 ニコニコには運営のひとりとして、2ちゃんねる管理人(当時)の西村博之(ひろゆき)がいた。

 「論破」なるもので知られる人物だが、今も昔もネット界への影響力と貢献は大きい。

 彼の協力があれば、2ちゃんねるからユーザーを引っ張ってこられる。オタクたちを集められるという目論見があった。

「やはりここは2ちゃんねるでクチコミで広めるのがいいんじゃないか、というのが衆目の一致した意見だった。そこで2ちゃんねるへのカキコミ部隊を作って宣伝することに決めた」

(同上)

 草創期のユーザーの確保は、サービスを運営する上でもっとも困難なことのひとつとされる。人気が伝わりにくいし、サービスへの信頼も無い。

 しかし、その困難を超える見込みが、彼らにはあったのだった。

 彼らの狙いは当たり、ニコニコ動画はネットを中心に話題を集めた。国産の動画共有サイト、というだけでも、それなりに目を惹いたようだ。

「動画に直接コメントできるんだ、面白いな」(歌い手・タイ焼き屋)

「“日本語版YouTube”みたいなイメージ」(歌い手・ゆりん)

 どんなサービスなんだろうか——。まだ見ぬ新たなサービスに、ユーザーたちは期待と好奇の眼を向けた。

 年の瀬も迫った2006年12月、ニコニコ動画はついにサービスを開始した。

 のちに日本のネット史に多大な影響を与える、一大サービスの船出だった。

◆歌ってみたのレジェンド・ゴム


 のちに「歌ってみたのレジェンド」の一人に数えられ、現在はクリエイター集団「HoneyWorks」で活躍する歌い手・ゴムは、その最初期の様相を目にしていた。

ゴムのXアイコンより

 わずか四畳半の狭い部屋、薄暗い中にパソコンのディスプレイだけが光を放っている。その画面を一人、じっと見つめていた。

「mixiで自分の友人が『この動画が面白い』というのを貼っていて、それを見て」

(『歌ってみたの本をまたまた作ってみた』(エンターブレイン、2011年)

 動画に流れるコメント。

 ときには弾幕のように、動画に覆いかぶさる光景。

 その珍奇な光景を見て、彼は期待感を抱いた。自分の願いが叶うのではないか、と思った。

 もしかしたらここでなら、と。

◆音楽をやめちゃうんじゃないか


 ゴムは1981年生まれ。九州で生まれ、音楽が好きな親のもとで幼少期を過ごした。

 歌い手というと全くの素人がやるものというイメージがある人もいるが、ゴムはそうではなかった。

「親はビートルズが好きでしたし、僕もBzなどをよく聴いていました」

(『ニコ動「おっくせんまん」は4畳半で生まれた』「アスキー」2008年7月10日付)

 中学生のときにギターを始め、いつの日かそれを生涯の仕事にしたいと思った。

 音楽経験のある人ならよくある話ではあるが、彼の想いは決して生半可なものではなかった。ある時には、こんな出来事もあったという。

「昔は『俺はミュージシャンになるんだ!!』って一念発起して、ギター抱えて九州の実家から関西まで家出したこともありました。今考えると痛々しいですが」

(同上)

 九州から関西までは直線距離でも500キロメートルほどの距離がある。その距離をギターとともにするほど、彼は音楽への想いを持っていた。

 子どもの行動力とはいえ、恐れ入る。

 けれども、夢を同じくする大勢と同じように、ゴムの夢は順調にはいかなかった。

 歳を重ねて大人になったとき、彼はやむなく就職することになってしまう。

「元々は作曲の仕事がしたかったんですよ。でもあまりうまくいかなくて、その後就職したんですが、そのときに『音楽を辞めちゃうんじゃないか』っていう危機感があったんです」

(同上)

 ずっと追い続けてきた夢が潰えてしまったことで、彼の心は揺らいだ。

 プロになんてなれないんじゃないか。

 音楽を続けて何になるのだろう。

 音楽で生計を立てるのは難しい。デビューするのが難しいのは言わずもがなだが、そうやってデビューできても、過酷な現実が待ち受けている。

1年に1枚アルバムを出し、3枚出して目標の売り上げに達しなかったアーティストは、契約を切られる時代になってしまった」

(レコード会社関係者 『《朝日新聞デジタル》ネットの「歌い手」 兼業クリエーターという選択』「朝日新聞」2013年11月1日付)

 「ずっと付いて行く」と公言していたファンでさえ、翌年には別の人のファンになっていることはざらにある。そんな不安定なものに支えられる生活は、どれほど過酷だろうか。

 ゴムもきっと、そうした“現実”に気づいていた。

 結局、ゴムはどちらの選択もしきれず、働きながらなんとなく音楽を続けた。

 ニコニコ動画が誕生する前は、2ちゃんねるのカラオケ板に投稿していた。

 もちろん投稿したところで、何かが得られるわけではない。CDデビューなんてありえないし、メジャーデビューなんてもってのほか。そもそも、聴いてくれるのはわずかな数でしかない。

 それでも彼は、そこに投稿するほかなかった。それしか、音楽を続ける、音楽を辞めずにいられる方法がなかった。

 将来に対する希望というよりも、自らの夢に対する悲観が、彼の投稿を支えていた。

◆「おもいではおっくせんまん」


 ゴムがニコニコ動画に出会ったのはそんな時、26歳頃のことだった。

 友人の貼った動画を見て、彼はよくわからない熱気のようなものを感じとった。

 動画の上でコメントがわちゃわちゃしている。

 変だけれど、なんだか面白そう。

 その雑多な空気感に期待感を抱いた。

 もしかしたら、ここに歌をアップすれば大勢に聴いてもらえるのでは——。かつてない高揚感が、彼のうちに沸いた。

「歌を歌ってアップする掲示板(※カラオケ板)があって、そこに歌を投稿していました。それを動画にしたら面白いのかなと思って」 

(『ニコ動「おっくせんまん」は4畳半で生まれた』「アスキー」2008年7月10日付)

 期待通り、2007年2月に投稿した初投稿作の反応は悪くなかった。

 KAT-TUNの楽曲『real face』を選曲したことで旧ジャニーズのファンから怒られたりもしたが、好意的なコメントもよせられた。今までにない反応に、彼は喜んだ。

 その勢いのままに、2曲目もすぐに投稿する気になった。

 選曲したのは、当時流行していたネットオリジナル曲「思い出は億千万」。わざわざスタジオを借りる余裕はなく、自宅に作ったオリジナルの簡易防音室で録音した。

「ウチには防音室があるんですよ。しかも自分で作りました。クローゼットを買ってきて、遮音性の高い石膏ボードと、スタイルフォームやグラスウールといった吸音材を付けています。一応、電気も引いて、合計5万円ですかね。自宅はワンルームの4畳半なんですが、そこに防音室を置いているので、かなり生活空間が侵害されているという」

(同上)

 ニコニコ動画の空気感に合うよう、出来る限りシャウトする工夫もした。狭いクローゼットの中で汗だくになった。自分の歌声を聴いてもらいたいという一心だった。夢を託しながら彼は叫び続けた。

 そして3月6日、彼は「【ゴム】 ロックマン2 おっくせんまん!(Version ゴム)exit_nicovideo」を投稿した。

【ゴム】 ロックマン2 おっくせんまん!(Version ゴム)より

 この歌ってみたが、歴史を作る。

 投稿直後から瞬く間に1万、10万……と再生回数を獲得していった。彼がそれまで投稿していたカラオケ板といえば「1000回ダウンロードされたらスゴイ」(ゴムのインタビューより)に過ぎず、それとは比べるべくもない数字だった。 この伸びにゴムは驚愕し、恐れた。

 たしかに、多くの人に聴いてもらいたいという願いを込めてニコニコ動画に投稿した。

 けれども、ここまでとは思っていなかった。

 音楽の夢を諦めかけていた青年にとって、それは信じられないことだった。

 これを機にゴムは人気歌い手の一人に数えられるようになり、のちにメジャーデビューまで果たす。

 デビュー時に彼は、当時をこう振り返った。

「歌ってみたじゃすまなかった」

(『歌ってみたの本をまたまた作ってみた(エンターブレイン、2011年)

◆それは祭りの如く



 サービス開始直後のニコニコ動画は、祭りの幕開けのようだった。

 ゴムのようなユーザーを先駆けとして、ニコニコ動画は徐々に盛り上がりをみせはじめる。当時のいわゆるオタク——2ちゃんねるユーザーを中心としたユーザーがニコニコ動画を使い始め、2007年7月には一般ID登録者が200万人を突破した。

 再生回数も右肩上がりに伸びていき、一躍スターになるようなユーザーも現れ始めた。スターの動画には色々なユーザーが集まり、コメントによって交流を重ねた。

 スターといっても地域の祭りのステージに上がった一般人のようなもので、彼らは尊敬というよりも、ユーザーたちの代表のように扱われた。

 フロンティアの開拓者たちのなかの、ひときわ目立つ存在。オタクサークルのような、仲の良い友人同士の集まりのような。そういった集まりのひときわ目立つやつ。

 いうなれば「俺たちの代表」として扱われていたし、スターたち自身もその気持ちのもとで活動していた。投稿者——視聴者という主従関係でなく、友人同士の意味不明だけど楽しいノリのような感覚で、彼らは楽しんでいた。

 ゴムのような歌ってみたを投稿するユーザー——のちに歌い手と呼ばれるユーザーの姿も、その中にあった。

 この中心となったのも、やはり2ちゃんねる出身のユーザーだった。そのほかボイスブログなどからもユーザーが集まり、ニコニコ動画の盛り上がりとともに、歌ってみたも人気を博していった。

2021年筆者集計

 投稿者たちがニコニコ動画に集った理由は十人十色で、決まったものはない。

 歌ってみたに限れば、ゴムのように淡い希望を託してニコニコ動画に投稿した人もいれば、ただなんとなく歌声自慢がしたかっただけという人もいた。

 当時はニコニコ動画からCDデビューなんてことは想像もできない時代だったので、それぞれがそれぞれの想いを抱いて投稿をしていた。

 ただ、あえて一つの理由を探すとすれば、それほどまでにニコニコ動画の勢いがすさまじかったから、ということになるだろう。主客転倒気味ではあるけれども。

 ネットレイティングス(現ニールセン)の07年8月の調査レポートでは、こんな調査結果が紹介されている。

「動画共有サイト『ニコニコ動画』(nicovideo.jp)が、利用者ひとりあたりの平均利用時間、平均訪問回数などの指標において、『YouTube』(youtube.com)をはるかに上回る勢いで数字を伸ばしていることが明らかになりました。[中略]平均利用時間の増加ペースは昨年春から夏にかけての YouTube 普及時を上回る勢いです」

(『「ニコニコ動画」、8 月の総利用時間 (Total Minutes) は前月比 52%増加 ひとりあたり平均利用時間、平均訪問回数は YouTube を大きく上回る』「ネットレイティングス」2007年9月21日付)

 少なくともサービス開始直後の勢いで言えば、ニコニコ動画はYouTubeをしのいでいた。今では考えられないが。

 この調査には、こんな言葉まで添えられている。

「(ニコニコ動画は)動画関連ビジネスにとって最も注目されるサービスといえます。常時視聴可能な200万IDのほか約100万の待ちIDもあり、今年後半にかけ登録ID数が増えるとともに、さらに成長が続くのは確実です」

(同上)

 のちにニコニコ動画からよりユーザーが多いYouTubeへの移民が進んだように、勢いがあるプラットフォームに人が集まるのは自然なことだろう。はじめにユーザーが集まった理由の説明には全くなっていないが、ニコニコ動画の勢いの理由の一つにはなる。

 この熱狂はもちろん、歌ってみたの界隈も例外ではなかった。

 サービスが始まって間もなく、有名無名の区別もほとんどない。オタクの友人たちとカラオケに行って騒ぐような、サークルのようなノリでユーザーたちは楽しんだ。歌の上手さなんて二の次で、何よりもノリの良さを大切にした。

 彼らにとって歌ってみたとは、「俺たちの文化」と言うべきものだった。既存の商業でよく目にする音楽とは違う、自分たちの独自の価値観に基づいた音楽。自分たちが築いた独自の文化として歌ってみたを愛し、楽しんだ。

 こうした活況を目にして、運営もその勢いを認めた。2007年5月には「歌ってみた」が一つの動画カテゴリとして定められる。今にまで続く「歌ってみた」という名詞が生まれた瞬間だった。

 ユーザーたちの「俺たちの文化」として、歌ってみたは歩みを始めた。

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