見出し画像

自分で決めたことだとしても

以前、「大変でしたね」の一言で私の気持ちが救われたことを記事に書いた。ハローワークでの出来事だった。

今日はそのハローワークに足を運ぶ最終日だった。時間どおりに着くと、担当者の方が私を待っていた。
所定の手続きを終えた後、今回が最後ということで、改めて挨拶をした。はじめて会った時の彼女の言葉が、とてもうれしかったことも伝えた。
なぜこの方はそんなことが言えるのかと思い、恐らく本人か周囲に同じような境遇の例があるのではないかと推測したことや、その後、彼女自身の困難な不妊治療の話を伺い、あぁ、だから、と思ったことも話した。

内容は違えど辛い経験をして乗り越えた人だから、他者に共感できるのだろうと思う。
共感は、自分の背中を押すものじゃないだろうか。目の前に相手がいて、なんらかの過去を抱えている。自分はその出来事をこの目で見てはいないけれど、でも、一歩踏み出して、相手の気持ちを想像したいと思う、その行動力。そして、その勇気を得るには、自分自身の問題に向き合う体験が必要なのかもしれない。

「あんなふうに言ってもらったことは、今までありませんでした」と私が言うと、彼女は「そうですか?大変だったと思いますよ。若い時に出産して、さらに海外にも行って」と意外そうな顔をした。
私は、「私自身がしんどいとか言わなかったからかもしれません。全部自分で選んだことでしたし」と答えた。
すると、「自分で選んだのだからこそ、辛いんじゃないですか」と彼女は言った。「なかなか弱音を吐けませんから」

そうかもしれない。
というより、自分で決めたという事実が、物事の困難さを減ずることはないのだと思う。
本人の心構えは違うとしても、苦しいものは苦しい。


画像は、先週の送り火。
しばらく前に息子と近所を散歩中、大文字がよく見える高台を見つけた。8月16日の20時前に行ってみると、すでに幾人か待機している。三脚を据えたり大きなカメラを構えたりしている人もいる。やっぱり、この場所いいものね、と少しうれしかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?