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バッハ「ゴルトベルク変奏曲」、或いはグールドの寂しさ

トルコはアンカラ音楽院出身の有名なピアニスト、ファジル・サイがバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を演奏してくれるとのことで、錦糸町駅前のすみだトリフォニーホールへ。錦糸町って、ドープなカレー屋さんがあって時々食べに来てて、その時は外国の方の客引きが多いなぁという印象であんまり文化的な街だという認識はなかったんですけど、何ですかこの立派なホールは。区でこんな立派なホールを持ってるんですね、すごい。そんなに税収があるんだろうか。

記憶のイメージよりちょっとふくよかでした


さてこのファジル・サイの演奏会、「ゴルトベルク」はとりあえず置いておいて、その次にやったシューベルトのソナタ19番が素晴らしかった‼シューベルトと言えばピアノ小品曲や歌曲といった、こまくてかわいいイメージが強かったが、このソナタはかわいらいしいモチーフからベートーヴェンのような荘厳な轟きに、また鈴が鳴るような細く美しい響きに、そしてまた軽快に主題のモチーフに、と目まぐるしく展開してゆき、飽きることなく気がつけば終曲。後にはこの後すぐに死んでしまったというシューベルトの寂しさだけがポツリと残るような楽曲でした。クラシック解像度がまだまだ低い自分は割りとソナタってダレちゃうんですけど、この演奏に関してはそんなことが全くなかった。
そもそも各パートの弾き分けが過剰すぎるほど明白で、ファジル・サイ流の味付けがたっぷり付いた演奏だったんじゃないかと思う。何ならもう思いあまって、空いている手で踊るように中空をなぜてみたり、思わせぶりにこちらを向いてみたりと、非常にサービス精神の豊かな人でした。サービスピアニストといえば中国の顔弾きピアニストことランランが思い浮かびますが、この人も負けず劣らずの顔弾きっぷり。しかし、彼のシューベルトのソナタはほんとに良かった。

横着な座り方はさておき、31歳で死んじゃったのは惜しかったですね


ではゴルトベルクはどうか。私にとってのゴルトベルクの良さとは、ひいては、私にとってのバッハそのものの良さとは、そこに最早人がいないのにその手仕事の美しさだけがあること、あくまで人の作業の跡というか、残り香だけが微かに香ってくるような、そんな無機質と有機質のあわいにある、ほの暖かさのようなものだと思っている。美しい無人の建築物をただただ眺めているような。
では、ファジル・サイのゴルトベルク演奏はどうだったのか。これが、シューベルトと同じくゴルトベルクも味付けたっぷりの、サービス精神盛り盛り演奏だったんですよねー。いや、確かにありがたい。本当に上手だと思うし、楽しませてくれようとして頂いているのも本当にありがたいことだと思う。でも、ゴルトベルクでそれはどうなのかな…。僕の個人的な好みですけど。もう最早ほの暖かさとかじゃなくて、目の前をキラキラしたレースが沢山ついた壮麗なドレスが、縦横無尽に舞いまくっているような演奏でした。そして奥には、チラチラとファジル・サイの顔が見えている状態。何かあれですよね、独りになりたくて静かな公園に行ったら、人懐っこくてサービス精神旺盛な大道芸人がいたみたいな感じ。

「ゴルトベルクっていうのは、誰にも邪魔されずに孤独な作業で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ…」

救われてなきゃあ…


じゃあ一体どんなゴルトベルクがいいのか!
腐してばっかりでは生産性がないので、私の物凄く狭い見識の中から、えぇやん、てなゴルトベルクをご紹介したいと思う。


①グレン・グールドのゴルトベルク


これはもうマスターピースですよね。標準時子午線というか、アルキメデスの点というか。何故グールドのゴルトベルクがこんなにも良いのか?これは楽典なんて全然知らない門外漢としてものすごく乱暴なことを言うと、この素晴らしさはもう、グールドがものすごく変わった人だったからなんじゃないか。なんというか、演奏、パフォーマンスに対する意識がかなり変わっていて、自分のために、自分だけの神様に祈るようなかたちで弾いてる感じなんですよね。まぁ演奏とはそもそもそういうものだと思いますが、彼の場合は、意識が彼岸にトンじゃってる度がもの凄く高い。あの低い椅子でかがみ込むように弾く独自性ありすぎスタイルだとか、真夏でもコート着て手袋してたりとか、毎日1食でクラッカーとビタミン剤しか食べなかったとか、演奏前に毎回必ず30分お湯に手を浸してたとか、知れば知るほど自分の皮膚感覚に正直に、厳格な自分だけの手順を確立していたんだと思う。
彼も演奏中に空いてる手で指揮をしちゃったりはするんですけど、それもパフォーマンスというよりは、もう身体全体で一つの演奏機械に変化しているが故の、必然的な部品の動作のような感じ。いつも演奏しながら歌ってることも、同じ必然性から来るものなのではないか。ドゥルーズ=ガタリとかがすごく好きそうな演奏家だと思う。YouTubeにバッハのパルティータを弾いてたら勢い余って弾くのをやめちゃって、歌いながら部屋の中をうろうろしだす素敵な映像があったんですけど、アレも同じように意識が演奏にものすごく同化しちゃってることの表れだと思う。あと彼は生涯独身で、大好きな自分の犬に手紙を書いてたりしてたらしいですね。そういうとこも好きだなぁ。


そのこだわりの裏返しというか、いやむしろそのためのこだわりなんだろうけど、演奏についてはその奉仕の精神性というか、自分の存在をとことん滅して美しさのためにのみ祈るような聖らかさは、グールドはほんとうにピカイチだと思う。ひとつひとつの音がただそこにあって、それが例えようもなく美しい。そして寂しい。彼の音にこれまで何度救われたか分からない。そう、彼はバッハを弾くこととは、どこまでも孤独な作業でしかないことを理解していて、その限りない崇高さと、一つの存在としての寂しさの狭間で演奏しているのではないか。或いは、寒そうなカナダのトロント出身っていうのも一つの要素なんだろうか。
私が聞くのはいつも1981年の晩年の方の演奏で、若い時のはあまり聴いてないのですが、なにぶん見識が狭いものですみません。



②アンドラーシュ・シフのゴルトベルク

彼の演奏はすごく優しい。小学生の頃にピアノを習っていたころ、お手本だと思っていたのは彼の演奏のような、柔らかく優雅でどこまでも優しく、流麗な音だった。しかし個人的な趣味で言えば、長ずるにつれて分かってきたように、生きることはそんなに美しいことばかりではないし、私は人間と哀しみは切り離せないものだと思っているので、ちょっと口当たりが甘すぎるかなといったところ。おじさんになるともう二度と感じることのできない母親のような温かさで、ほんとに良いんですけどね。
あと、対位法ってやつはよく知りませんが、音と音との配置のバランスがきれいに均整がとれているのはグールドの方だと思う。左右が全く対称な顔は違和感を覚えるらしいし、有機的な波があるのは悪いことではないと思うけど、バッハを聴くならやはり建築物のようなストラクチュアの美しさを味わいたいな、というのが私の感想です。これも私が聴くのは年取ってからのほう、2001年のやつですね。



③ヴィルヘルム・ケンプのゴルトベルク

こちらはドイツ人のケンプらしい、端正で無駄が削ぎ落された、線画や筋彫りのようなゴルトベルク。これはそれぞれの音がしっかりと明確な座標を持って存在しているようで、なかなかに建築的な素晴らしい音像。一発目のアリアから知ってるゴルトベルクとはかなり違う侘び寂びの渋いメロディラインで、これはあれですか?他の皆が装飾音たっぷりの後世のスコアで弾いてるってことなんだろうか?全然知識がないのでそのあたりご存じの方がいたら教えてください。
しかしこれはもう全く個人の趣味でケンプさんには大変申し訳ないのだが、もう少し寂しさ哀しさが欲しいというか…。丹前で畳の部屋で、書見台を使いながら書見などいたしておるような、そんな折り目正しい演奏。彼が生涯で何度ゴルトベルクを録音しているのか分かりませんが、私がCDを持っているのは1969年の演奏ですね。ジャケットの写真ではケンプも結構おじいちゃん。



④高橋悠治のゴルトベルク

彼は現代音楽を弾く人だけあって、徹底的に乾いているというか、ものすごく無機質でハードでかっこいい音像。元気があるときは高橋悠治がいいですね。しかし元気があるときにゴルトベルクを聴きたくなるかというと、それはそれでなかなか難しいシチュエーション。元気な時はもっと明るいやつ聴きたいですしね。良い意味で虫っぽいというか、多足類の虫の足々の、均整の取れた、それでいて複雑な動きを眺めているような感じ。アマゾンのレビューに「水牛のように力強い…」という記載があったけど、まさに言い得て妙。どこを見ているかよくわからないながらも、力強く確実に歩んでいくような印象。私がいつも聞くのは1976年の若い頃の演奏です。



⑤カール・リヒターのゴルトベルク(チェンバロ)

これを出すのは反則な気もするが、カール・リヒターによる1970年の、チェンバロによるゴルトベルク。チェンバロをご存じない方に補足すると、バッハの時代にはピアノはまだ存在せず、もっぱらオルガンかこのチェンバロだったらしいんですよね。現在のフェルトハンマーで弦を叩くピアノとは違って、爪で弦を弾いて音を出す仕組み。爪は鳥の羽の骨のとこだったと思うけど、むちゃくちゃキラキラした音で、一方でピアノに比べて強弱がつけられないらしい。
しかし一聴すれば瞬時に分かる、この貴族的で煌びやかな音‼この時代の人たちは、こんな音を聴いて天上の世界に思いを馳せていたんだなぁ。いや、チェンバロって当時の市井の民衆も日常的に聴けたのだろうか。もし貴族階級や富裕層しか聴けなかったのであれば、それは下層階級の人々の犠牲の上に築かれた架空の華やかさということで、もう二度と存在しない、存在してはいけない美しさであって、憧憬するのは間違ってると思う一方でものすごいノスタルジーを感じるし、もし民衆も聴けていたのだとすると、きっと物質的には現代よりものすごく不自由な生活の中で、その中でこんなに浮世離れした音を聴いて救いを願っていたのだとしたら、それはもう何というか、人間の精神の崇高さでしかありえないのではないだろうか。「金持ちが天国に入ることは、ラクダが針の穴を通るより難しい。」誰かえらい人が言ってましたよね。
ものすごく美しいし、これがバッハの時代の音像なんだと思うけど、一方で現代に生きる私には直接的に接続できないというか、なんともアンビバレントな演奏。しかし一方で、ほんとに絶望した時にはこれがいい。この世界に何も期待していない音だと思うから。


バッハの音楽は神を信じることのできない自分のようや不逞の輩にも崇高な祈りの気持ちを起こさせてくれる素晴らしいものだと思うし、中でもゴルトベルクは小一時間で綺麗に纏まっていてとっつきやすい楽曲なので、機会があったら是非どうぞ。
皆さんに良き精神生活のありますように。






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