そしりはしり

そしりはしり

「怖い話」というのとは違うかもしれないが、思い出した「後味の悪い話」を。

私の母は結婚してから暫くの間、夫である父の収入が安定していなかったため、地元のカバン工場で働いていた事があるという。
そこは二代目夫婦が切り盛りしていて、割と繁盛していたそうだ。
ただ……従業員を軽んじているような所があり、近所でも敬遠している人が多かったようだ。
そのうちに、母が第一子である私を妊娠した。
悪阻が酷く、これまでと同じように働けなくなった母に対して、工場主の夫婦はこう言い放った。
「こんな忙しい時に妊娠なんて、とんだ迷惑だ」
「こちらとしては、腹の子を堕ろしてもらいたいくらいだ」
「このままうちで働きたいなら、腹の子供は始末してこい」
初めての妊娠でナーバスになっていた母は、体調面の事もあり、工場を辞める事にした。
母が工場を退職して数日後。
知り合い経由で思わぬ知らせが届いた。
工場主の孫が亡くなったというのだ。
工場主の夫婦には翌年に小学校入学を控えている孫がいた。
それこそ目に入れても痛くないほどの可愛がりようで、家族全員が入学式を心待ちにしていた。
夫婦は特別に高級牛革を仕入れ、工場で孫のためのランドセルを作ってやり、そのランドセルを背負って家の前を嬉しそうに走り回る孫の姿も見られていた。
その子が自宅のお風呂で亡くなったというのだ。
当時のお風呂は今のように給湯式ではなく、湯船に隣接するガスでお湯を沸かす。
消し止めるのを忘れると、湯船の中のお湯は飛んでもない温度になるのだ。
実際、ガスの消し忘れで沸騰し続けたお湯の量が減り、火事を出す家も少なくなかった。
「お風呂のガスを消してくれ」という誰かの声を聞いたのだろう。
その子はトコトコとお風呂場へ行き、沸き立った湯船に掛けられている風呂の蓋の上に乗ってガスを止めようとしたらしい。
しかし高温になったお湯の熱で、プラスチック製の風呂の蓋は軟化しており、幼児の体重を支える事ができなかった。
蓋ごと熱湯に転がり落ちた子供は……。
子を失った両親は悲しみのあまり半狂乱になり、工場主の夫婦も愛する孫の死に抜け殻のようになってしまった。
やがて事業もうまく行かなくなり、そのうちにカバン工場は閉鎖されてしまった。

直接、誰かが何かをしたわけではない。
もちろん、私の母が工場主夫婦を恨んだり、呪ったりした訳でもない。
それでも母は、その訃報を聞いて非常に後味の悪い思いをしたという。
「他人のお腹の中にいる子に対して『堕ろせ』とか『始末しろ』なんて言葉を、当たり前のように投げつける事が出来る人達だもの。自分達の言葉が返ってきたのかもしれないね。自分の家族は大切だけど、従業員にも家族がいて、同じように大切な存在があるって事が最後まで理解できなかったから、自分達の一番大切な存在を持って行かれたのかもしれない」
おそらく、母のように心無い言葉を投げつけられた人が他のにもいたのではないだろうか。
積もり積もった夫婦の「言霊」が、最悪な形で返っていったのではないかと母は呟いていた。
「それにしても、お孫さんには何の罪もないんだけどねぇ。それだけは可哀想に思ったよ」
だからお前も気をつけなくちゃいけないよ、と母は話を結んだ。


※そしりはしり:悪意のある言葉で相手を誹謗中傷し、不快な思いにさせる事