宿直草「小宰相の局、ゆうれいの事」

我が家へ出入りする座頭が語るには

私が平家物語を伝授してもらった師匠は摂州尼ヶ崎の星山勾当という人物です。平家物語の第九の巻を習う時に、この『小宰相の局』を一句語って、耳を失ってしまった人があると言います。

「第九は平家物語の中でも【秘事】とされていたために、語る時には心するように」

と言われておりました。
私は是非とも聞いてみたいと思い

「どういうことなのですか?」

と尋ねてみました。
師匠が申しますには

──私の懇意にしている座頭、名前を団都(だんいち)と言うが、この人物が知人を訪ねて筑紫へ向かって海路を辿って行く最中の話である。まず下関の赤間関に到着したのだが、そこで浄土宗のある寺に身を寄せた。
この寺には寿永(一一八二~八五年)の頃に滅してしまった平家一門の卒塔婆、石塔、御墓などが並んでいたが、縁者もすでに絶えて誰も訪ねる者のないそれらは、長い年月の間にすっかり苔むしてしまっていた。
団都はある夜、旅の空の下で故郷を恋しく思い出し、なかなか寝付くことができなかった。
まだ夜明けには程遠い時間ではあるが、誰か扉を叩く者がいる。

「誰か?」

と問えば、女の声がして

「わたくしは、さる御方の使いにございます。今宵、長夜のつれづれに、御伽の役目を申し付けたいと仰られております。どうか共においで下さいませ」

と言うではないか。
団都は承知すると、相手は座頭の手を引いて先を歩いて行く。
やがて壮大な門をくぐり、音を頼り、手触りを頼りに進んでいけば、石造りの階段に玉で作られた欄干と、大層な御殿であることが感じ取れた。
手を引かれるままにしばらく行くと、楼閣に辿り着いた。
錦で作られたであろう几帳が団都の手に触れ、御簾を吹き抜ける風からは何とも芳しい香りがする。
侍女たちが多く控える中を、御座の近くに導かれて座った団都に上臈が艶やかな声で

「よくぞ参ってくれた。ここで平家物語を一句聞かせて欲しい」

と告げる。
団都が畏まって

「平家物語は長うございます。いずれかご所望の場面がありますでしょうか?」

と言いますと、上臈は

「ならば哀れでもあり面白くもある『小宰相の局』を頼もう。是非これを語って欲しい」

と団都に申し付けた。
団都は琵琶をかき鳴らし、感情豊かに語り続けた。
座にいる者達は、誰も一言も発せず彼の語りに聞き入った。
団都が一句語り終えると、茶や菓子などで彼をもてなし、彼の語りを褒め称えた。

「何とも素晴らしい語りであった。しばし休まれよ。それにしても一の谷より屋島へ越えていった人々は、それでなくとも弱り果てていたであろうに、越前の三位(平通盛)と別れなくてはならなかった小宰相の局は、その悲しみやいかばかりであったろうか。別れを惜しみ、身を焦がして入水してしまったのも無理はない。
また通盛も十六歳という若さであったのに、その悲しみを思えば涙があふれる」

との女主人の言葉に、座に並びいる人々はみなそっと涙を拭いた。
しばらくすると『今一句語って欲しい』との申し出があり、団都は畏まって先程と同じく『どの場面をご所望でしょうか?』と問うた。

「今聞かせてもらった語りの限りなく素晴らしかったので、もう一度『小宰相』を語って欲しい」

と上臈が応えたので、否やもなく団都は再び琵琶を抱えて語った。
その一句をすべて語り終える前に、

「あなたはどうしてそこで、誰に向かって平家物語を語り聞かせているのか?」

と寺の住職の声がする。
団都は不思議に思い、琵琶をかき鳴らす手を止めて辺りを手探りすると、上臈が座っていたと思われる場所には誰もおらず、手に触れたのは石塔だった。
侍女たちはどうしたのかと探れば、そこにあったのは苔むした卒塔婆の数々。
これは一体どうしたことかと思い

「ここは何処なのでしょうか?」

と問えば、住職が

「ここは寺の墓地である。その石塔は小宰相と呼ばれる貴女の眠る墓だ」

と答える。「今朝お前を起こしに部屋へ行くと、お前の姿はなく、琵琶も見当たらない。もしかして私に何か恨みでもあって黙って出ていったのかと、いらぬ事を思いながら色々と探していたのだ。するとかすかに琵琶の音が聞こえてきたので、お前がここにいると分かった。どうしてこのような場所にいたのだ?」

これを聞いて団都は正気に戻り、これまでの次第を住職にすべて語った。

「これは大変な事である。きっとその者達は今夜もお前を連れ出そうとしてやってくるだろう。お前は今夜、外へ出てはならぬ。出てしまえば命の保証はない。平家物語を聞いていたのは、その小宰相の局の幽霊である。執着の心があまりにも深く、お前を『向こう』へ連れて行って百夜でも語らせるつもりであるのだろう。だが私がお前の身を守ろう。安心していなさい」

住職は団都に行水をさせ、降魔の呪、般若の経文を座頭の全身に書き連ねた。
しかし団都の左の耳にだけ一文字も魔除けの文字が書かれていないことに、ついに気が付かなかった。
そして

「お前は今宵、声を出してはいけない。音を立ててもいけない。驚いて身動きなどしてもいけない。耐えなさい」

と言いつけた。

やがて日も暮れ、昨夜と同じ頃、果たして彼を呼ばわる声がする。
団都は言いつけを守り、返事もせずに恐ろしさに震えていると扉を開けて昨夜の女が入り込んできた。

「不思議な事よ。座頭殿はおわしませぬのか」

と部屋の中を探し始めた。
女の手が団都の体に触れ、彼は今にも死んでしまうと悲嘆にくれたが、有り難い経文の力なのか、女に団都の姿を見つける事はできないようであった。
女はしばらく考え込んでいたようだが、経文の書かれぬ団都の左耳を探し当て

「ここに座頭の耳がある」

と乱暴に引き千切り、部屋から出ていってしまった。
団都は痛みと苦しみに歯を食いしばりながら耐えた。

彼の元に戻ってきた住職は団都の頭を見て大変に驚いた。
団都が事の次第を話すと

「そうか。私がお前の左耳に経文を書き忘れてしまった事を今思い出した。何とも悔しい事だ。しかしながら、お前の命は助かった。左耳は失われてしまったが、耳を一つ手に入れた事であの者達の執着も失せたことだろう。安心しなさい」

と告げた。

その時から人々は「耳切れ団都」と呼ぶようになったのだ。──

と話してくれたのでありました。