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【丙丁の怪】執着の炎

木崎さんは無類の本好きである。
自宅マンションの部屋に積んでおいた本、いわゆる「積ん読」が増えてしまったので、いい加減に整理しようと本棚の片付けを始めた。
夜も遅い時間だったので程々にしておこうと思っていたのだが、何やらスイッチが入ってしまったらしく、全ての書籍を引っ張り出して分類を始めてしまった。
もう読まない本は大きな紙袋に移し、次の休みの日に古本屋に売りに行くことにする。
限られたスペースを最大限に活用しようと、本棚の奥にはハードカバーの書籍を、手前には文庫本をというふうに並べているため、奥のスペースにはギチギチに本が入っている。
力を込めて本を引っ張り出した時、足元で「ゴトン」と硬い音がした。
音のした方を見ると、床に金色の光を放つジッポライターが転がっている。
1年ほど前に別れた元カレの持っていたものだ。
木崎さん自身は喫煙の習慣がないので、部屋の中で煙草を吸わないでくれと言って元カレと何度もケンカになった。
しぶしぶベランダで煙草を吸う元カレが、このジッポライターで火を点けていたのを覚えている。
重厚感のあるライターを持ち上げて蓋を開けると、カキンッという小気味いい音。
試しにフリントホイールを回してみると、ボッという音と共に芯の部分に火が灯り、オイルライター独特の匂いが鼻を突く。
交際期間は2年程だったが、元カレの金遣いの荒さと女性関係のだらしなさに嫌気がさし、木崎さんの方から別れを切り出した。
が、それは木崎さんが思っていたほどすんなりとはいかなかった。
別れることに納得のいかない元カレが1日に何通も復縁を迫る着信やメールを送ってきたり、彼女の職場の前で待ち伏せしたりと、段々ストーカーのような行動をとるようになっていったのだ。
自分が仕事に行っている間に勝手に作った合鍵を使って入り込まれた事もあった。
幾らかでも抑止力になればと警察にも相談してみたのだが、せいぜいが「周辺の見回りを強化します」「何かあったら通報して下さい」という返答だけ。
少しでも自衛しようと貯金をはたき、セキュリティーのしっかりとしたオートロックの単身者用マンションに引っ越しをした。
買い替えたはずのスマホに、どこからか彼女のアドレスを手に入れた元カレから再び連絡が入るようになった時、木崎さんは両親に頭を下げてお金を借り、弁護士を挟んで「これ以上つきまとうなら裁判沙汰も辞さない」と警告をしてもらった。
そこまでして、ようやく元カレからの復縁要請はこなくなった。
やっと戻ってきた静かな日常の中で、木崎さんは元カレの存在を忘れようとしていた。
なのに。
「何でこんな所にあるのよ……」
引っ越した時に元カレにまつわる荷物は、全て処分したはずなのに。
こんな所でジッポライターなど見つかるはずはないのに。
どこまでも元カレが自分を追いかけてくるような気がして、木崎さんは大きくため息をついた。
カクンッと音を立ててジッポを閉じると、ライターをテーブルの上に放置して本棚の整理を続けた。
今度の不燃ごみの日に捨ててしまおう。
ヤツの存在を思い出させるような品など、いつまでも手元に置いておきたくない。


深夜、何が原因だったのか、急にポカリと目が醒めてしまった。
それと同時に喉の渇きを覚えたので、キッチンへ。
流し台の脇に置いてある時計を確認すると、時刻は午前2時。
普段なら1度眠ってしまえば朝まで起きる事はなかったので、珍しいこともあるものだと思いながら買い置きのミネラルウォーターで喉を潤し、再びベッドへ戻る。
壁に向かって横向きになった時、鼻の先に漂ってくる独特の匂いに気がついた。
これは……ライターオイルの匂いだ。
昼間に見つけたジッポライターのことを思い出す。
何かの拍子に蓋が開いてしまったのだろうか?
いや、蓋が開いたくらいでこんなに匂いがするものだろうか。
ジッポライターの蓋なんて、弾みで開いてしまうものでもないだろう。
そこまで考えた時に、背後で「カキンッ」という音が響いた。
誰かの手でジッポの蓋が開けられた音。
続いて「カシュッ」というフリントホイールの回される音。
かすかな「ボッ」という音と共に、強くなるオイルの匂い。
そして「カクンッ」と蓋の閉められる音。
(誰か部屋の中にいる!?)
そう思って体を固くした瞬間、木崎さんは自分が動けない事に気がついた。
(え、何? 金縛り?)
じっと壁を見つめたまま、どうにかして自由を取り戻そうと気持ちだけはもがくが……体はピクリとも動かない。
そうこうしているうちに、木崎さんは自分の背中にじんわりとした温度を感じた。
まるで誰かが同じ布団の中で添い寝をしているような。
背中から腕を回して抱きしめられているような。
再び「カキンッ、カクンッ」とジッポの蓋を開閉する音。
何が起こっているのか分からず混乱している木崎さんを弄ぶように、背後から回されている見えない腕が彼女の体をまさぐり始めた。
(うわっ、気持ち悪い!)
木崎さんが心の中で嫌悪の叫び声をあげている間にも、見えない腕は動き続ける。
そして断続的に聞こえるジッポライターを開閉する音。
必死になって自由を取り戻そうとする木崎さんの脳裏に「どこか体の一部分が動けば金縛りは解ける」という言葉が急浮上した。
どこで読んだのか、誰に聞いたのか、そんな事はどうでもいい。
今、この状態を打開できればいいのだ。
相変わらず、腕は木崎さんの体を這い回っている。
気持ち悪いのをこらえ、彼女は自分の右手親指に意識を集中した。
(動け、動け、動け……)
ジッポライターの音はまだ続いている。
無遠慮に動き回る何者かの手が木崎さんのパジャマの隙間に入り込もうとした瞬間、羞恥と怒りで頭にカッと血が昇った。
と同時に右手の親指にグッと力が入る。
かけていた布団を跳ね除けて飛び起きた彼女の中で、自分を弄ぶ腕の持ち主が誰なのかフラッシュのように理解できた。
「……っざけんじゃないわよ! いつまでも別れた女を未練たらしく追いかけてんじゃ、ないわよ!!」
夜中だという事も忘れて怒声をあげると、手にした枕をそれまで音のしていた方へ向かって投げつけた。
「カキンッ」と蓋の開いた音を最後に、背後にあった温度も、体中を這い回る腕の感触も消え失せる。
荒い息をつきながら照明のスイッチに飛びつくと、部屋の明かりをつける。
闇に慣れてしまった目に眩しい光に瞬きをしながら部屋の中を見回すが、当然、誰もいるはずがない。
床の上に視線を移すと、蓋の開かれたジッポライターが鈍い光を反射しながら転がっていた。
昼間、テーブルの上に放置しておいたはずのライター。
煙草を吸わない木崎さんがライターを触ったのは、あの時1度のみ。
だが床の上に転がるジッポライターは、誰かが使おうとしていたかのように蓋が開いている。
「あの野郎……。何なのよ、今更……」
羞恥と怒りが去ると、ジワジワと気味の悪さがこみ上げてきた。
あの腕は絶対に元カレのものだ。
独りよがりで自分の欲望にのみ忠実な、思い出したくもないヤツの。
木崎さんが疲れていようが体調を崩していようが、一方的に体を求めてきた元カレの手つきと同じものだ。
気付けば全身に鳥肌が立ち、震えている自分がいる。
今夜はもう、これ以上眠れそうにない。
部屋着に着替えると、財布とスマホ、鍵をつかむと近所のファミレスへと避難した。
ひたすらにコーヒーを胃に流し込みながら、夜が明けるのを待った。
少しうとうとして気がつくと、空はすっかり白んでいる。
木崎さんは意を決して部屋へ戻ってみたが、特に変わった様子もなく、彼女が出ていった時のままだった。
床に転がったジッポライターもそのままだ。
視界に入るのも嫌だったので、ティッシュを何枚もかぶせ、その上から雑誌を乗せて隠す。
気分を落ち着かせるために熱めのシャワーを浴び、眠気を払う。
シャワーを浴びている最中も、ドライヤーで髪を乾かしている最中も、背後が気になって仕方がなかった。
出来れば夜の間の出来事は全てが夢であってくれればとも思ったが、残念ながらそうはいかなかったようだ。
出勤のための身支度を整えた後も、ジッポライターはそこにあり続けた。
すぐにでも捨ててしまいたいが、生憎と次の不燃物収集日はまだ先だ。
自分の身近にライターを置いておくことで、またあのような思いをするのはゴメンだ。
雑誌をどけると、さらに数枚のティッシュをかぶせ、キッチンから持ってきたジップロックの中にティッシュごと放り込んだ。
ピッチリと口を閉め、ジップロックの上からタオルでぐるぐる巻きにする。
通勤途中のどこかで捨てる場所を見つけよう。
いつもの出勤時間より相当早いが、こんなモノを持ったまま部屋にいたくない。
自宅から駅までの道すがら、あちこちを覗いてみたが、ライターを捨てるのに適した場所は見つけられない。
結局、職場まで持ってきてしまった。
このままでは、また部屋に持ち帰ってしまう。
気持ちは焦るが良い解決方法が思いつかない。
バッグの中にジッポライターを抱えたまま、とうとう昼休みになってしまった。
本人に自覚はないが、他の人からすれば木崎さんの挙動はかなりおかしいものだったのだろう。
「ねえ、どうしたの。お昼行かないの?」
木崎さんに声をかけてきたのは、2年先輩の茂手木さんだ。
「先輩……」
「やだ、酷い顔してるわよ! 具合でも悪いの?」
茂手木さんに誘われて出向いた店で、申し訳程度に料理をつつきながら昨夜の出来事を説明する。
ひとしきり話を聞いた後、茂手木さんは合点したように頷いて
「それで今日は様子がおかしかったのね。話も上の空だし」
自分では仕事はちゃんとこなしているつもりだったのだが、やはりどこかに影響が出ていたのだろう。
木崎さんは恥ずかしさに赤面しながら、茂手木さんに謝罪した。
「やだ、大丈夫よ。何かミスした訳じゃないんだから。でもこのままじゃ、あなたも困っちゃうわよね」
ちょっと天井を見つめて何かを考えていた茂手木さんは、思いついたように木崎さんに視線を戻した。
「ねえ、そのジッポライター。今持ってるの?」
「はい、バッグの中に」
「それ、私が譲ってもらうわけにはいかないかしら?」
「え?」
急な茂手木さんの申し出に、一瞬どういう事なのか考えがついていかない。
「実はね。私、そういう心霊的な話って大好きなのよ。個人的に曰くのあるアイテムを集めたりしているの。正直、生霊憑きのライターなんて面白そうじゃない? あ、ごめんなさい、あなたが真剣に悩んでいるのは分かってるの。決して茶化している訳じゃないんだけど、そう受け取れちゃうわよね」
いたずらを見つかった子供のように、茂手木さんは肩をすくめる。
「あ、いえ。茂手木さんが預かってくださるなら、私としては大助かりなんですけど。本当にいいんですか?」
バッグの中から、厳重にタオルで包んだジップロックを取り出す。
その中にはティッシュで何重にも包まれた件のジッポライター。
「これがそのライターね」
テーブルの上に置いた荷物を引き寄せ、茂手木さんが少し不思議そうな顔をした。
自分の手から問題の品物が離れた事で、木崎さんの気分がわずかに晴れた。
「うん、これは私が確かに受け取りました」
「あ、でも。また勝手に私の部屋に戻ってきたりしたら……」
「多分だけど、それはないと思うわ。だから安心して」
茂手木さんの返答に木崎さんは首を傾げたが、それについて詳しい説明はされなかった。

その後、当時の自分達の交際を知っている友人に久しぶりに連絡をとってみた。
突然の電話に驚いたような友人は、それでも元カレの消息を教えてくれた。
友人の話によると、元カレは木崎さんと会えなくなってからしばらくの間は仕事もやめて引きこもりのようになっていたらしい。
これまでの素行を知っている元カレの両親は、自営だったこともあり家の仕事を手伝わせながら、見合いの手はずを整えて無理矢理に引っ張り出したそうだ。
どのような奇跡が起こったのか、先方に大変気に入られた元カレは無事に結婚。
今では実家の家業を継ぎながら、子供も生まれて幸せそうに暮らしているという。
「まあ、落ち着く所に落ち着いたって感じかな? あれで見た目は良かったから、お見合いの相手が一目惚れしたんだって。だから、今更そっちにちょっかいかけるような暇はないと思うよ。安心しな」
電話を切ってから、木崎さんは大きく安堵のため息をついた。
そうか、ヤツはもう自分の家庭を持っているのか。
ならば自分は関係ない。
これでやっと解放された。と思う反面、ならばなぜ、今頃になって自分の元に現れたのかとも思う。
木崎さんに対して執着を残していたために現れた生霊という訳でもなさそうだ。
色々と納得できない事はあったが、木崎さんはそれ以上考えるのをやめた。
自分が元カレの事を考えれば考える程、あのライターが戻ってくるような気がしたのだ。
結局、あれが本当に元カレだったのか、何をしに現れたのか、木崎さんには全くもって分からないままだ。
分からないままでいいと彼女は考えている。
問題のジッポライターは茂手木さんの手に渡ったまま、今もそのコレクションの1つとして大事に飾られていると言う。
今のところ、木崎さんの元に戻ってくる気配はない。
あの夜のような出来事は、それから1度もないそうだ。