難破した水夫の物語

 この物語はロシアのエルミタージュ美術館で発見された「エルミタージュ・パピルス」という古代エジプト語で書かれたものです。数人の人物が自分の体験談を語り、それを写本としてまとめたものだと伝えられていますが、残念ながらパピルスの一部しか現存しておらず、原題は「難破船員の話」と呼ばれています。

 エジプトの南部・ヌビアへと遠征していた親衛隊(王様や貴族の身辺警護をする部隊)が、故郷へ帰りついた所から物語は始まります。親衛隊の上官は、命じられていた使命を果たすことができずに落ち込んでいました。すると副官が落ち込んでいる上官をなぐさめようと、ある「体験談」を語ります。それは一体、どのような内容だったのでしょうか?

 その副官がまだただの兵士だったころ、王の命令でシナイ半島(アラビア半島とアフリカ大陸をつなぐ、三角形の半島)の王立銅山へ向かうことになりました。大きな船が用意され、そこに選りすぐりの兵士120人が乗り込んで出発しました。
 しかし不運なことに、航海の途中で船は嵐にあい、大波に飲み込まれてバラバラになってしまいました。たった一人生き残った兵士は、波に運ばれて見知らぬ島に打ち上げられました。誰かが自分を探しに来てくれるかも知れないと思い、兵士はその場で3日間を過ごしましたが、誰一人やって来ませんでした。
 空腹に耐えかね、兵士は食べ物を探そうと島の中を移動します。するとイチジクやブドウがたわわに実り、立派な野菜が生えているのを見つけたのです。空を見上げれば鳥が、水をのぞけば魚が見つかり、食料の心配をしなくてもいいことに兵士は安心しました。
 兵士は満足するまで食べると、地面で火をおこし、神々へ感謝の祈りと生け贄を捧げました。その時、兵士の後ろで木々が折れる音が響き、地面が揺れました。驚いた兵士が顔をあげると、そこには自分を見下ろしている巨大な蛇の姿がありました。その蛇の体は黄金で覆われ、長いヒゲを持ち、眉毛は本物のラピスラズリでできていました。
 蛇は動けずにいる兵士に向かって口を開きます。
「ここにお前をつれてきたのは誰だ! 言わなければお前を焼き殺す!」
 兵士はあまりの恐ろしさに何も言うことができず、ただ震えているだけでした。すると蛇は兵士の体をくわえ上げ、自分の住み家へとつれて行ってしまいました。そして兵士を傷つけることもせず、同じ質問を繰り返しました。
 兵士は恐怖に耐えながら必死で、乗っていた船が嵐で沈んでしまい、自分だけがこの島に流れ着いたと説明しました。兵士の話を聞いた蛇は彼に同情し、優しく言いました。
「人間よ、怖れるな。神のおぼしめしによってお前は命を救われたのだ。神はお前を生かし、このカアの島へとつれてきたのだ。この島にはすべてがそろっている。4ヶ月もすれば、お前は故郷に帰ることができるだろう。それまでは私と一緒にこの島で暮せばよい」
 こうして兵士は、カアの島で巨大な蛇と一緒に暮らすことになりました。蛇はやがて兵士に心を許し、自分のことを話し始めました。
「私はお前と同じような経験をしている。それを話して聞かせよう。かつてこの島には、私の家族がいた。兄弟たちと子供たちと、合わせて75匹の蛇だ。そして祈りによって私には一人の娘が授けられた。私はとても幸せだった。しかしある日、空から星が落ち、その炎によって仲間も娘も焼かれてしまったのだ。私が偶然、その場にいなかったので助かった。炎を見てあわてて戻った私は、そこでお互いをかばいながら一つに固まって死んでいる彼らを見つけた。もしもお前に勇敢な心があるのなら、お前はお前の子供たちを抱きしめることができるだろう。そしてお前の妻にキスをすることもできる。一人になってしまった私は知っている。家族や仲間と一緒に暮らすことが、どれだけ幸せなことかを。きっとお前は故郷に帰り、そこで家族と再会することできるだろう」
 兵士はこの悲しい話に胸を打たれ、蛇の前に体を投げ出して敬意を表し、こう伝えました。
「私が国に帰ることができたなら、あなたのことを王に話しましょう。あなたがいかに偉大で心優しく力強き存在か、必ず王に伝えます。そして数々の香油や神々を喜ばせる香をお持ちします。国中の神官があなたのために礼拝を行い、私はあなたのために牛や鳥を生け贄に捧げます。あなたにエジプトのすべての素晴らしい物を積み込んだ船をきっと送り出しましょう」
 しかし蛇は兵士の申し出を断ってこう言いました。
「そのような物は私には必要ない。なぜなら、ここにすべてがあるからだ。私はプント(古代エジプト人が理想郷として考えた架空の国)の支配者なのだから。それにお前がこの島を離れた後、二度とこの場所を見ることはない。この島は海に沈む」
 蛇が予言していたように4ヶ月が過ぎると、エジプトから兵士を迎えるための船がやって来ました。兵士が蛇にこれまでのお礼と別れを告げると、蛇はプントの貴重な香料や聖油、スパイス、獣や象牙など美しく貴重な宝物をお土産として持たせてくれました。
「人間よ、元気で暮らせ。お前は2ヶ月で故郷にたどり着くだろう。そして家族と暮らすことができるだろう。帰り着いたお前の町で、どうか私のよき名を広めてくれ。それだけが私の願いだ」
 船の上で兵士が蛇に敬意を表すと、他の乗組員たちも同じようにしました。船が島を離れると少しずつ島は沈み始め、そしてとうとう見えなくなってしまいました。
 兵士は蛇が言った通り、2ヶ月で故郷に帰りつき、家族との再会を果たしました。蛇からもらった数々の貴重な品を王に渡し、そこで何が起こったのかをすべて話して聞かせました。兵士の話を聞いた王はプントの支配者である蛇に感謝し、エジプト全土の高官の前で神々と蛇のために祈りを捧げました。
 兵士はこの経験から親衛隊の副官という地位を与えられ、家族を大切にして幸せに暮らしているというのです。
「ですから上官殿、人生何があるか分からないものです。上手くいかないこともありますが、それがずっと続くわけではありません。元気を出してください」
 そう言って上官をなぐさめたのですが、上官はため息をついて口を開きました。
「わが友よ、そこまでする必要はない。朝になったら首を切られて死ぬ鳥に、誰が明け方水をやるだろうか?(これから死ぬことが分かっているのに、そんな話を聞いても仕方がないだろう)」

 パピルスはここで終わっていて、この上官がどうなったのかは描かれていません。無事に家族の元に帰れたのならいいのですが…。