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気ままに作曲からネタ作曲まで自作を語る記事 (10)

『戸棚の奥で微笑む人形』 2020/06/06

大変怪しいタイトルだが、気ままに作曲の6/6に作曲した作品である。
主題メロディを3回変奏しながら繰り返すシンプルな形式である。
こうした音楽の雰囲気は好きなのだが、人によっては「寂しげ」や「諦観」などの感想を抱くこともあると思う。自分は少なくともこの曲については独り言のような曲だと思っている。
同じメロディを繰り返しながらゼクエンツを行うシーン (0:30-) などは、一つの言葉をさながら多角的に思考しているようであり、そこから新しい響き・ひらめきを得るシーンはとても個人的には気に入っている。
タイトルの「戸棚の奥で微笑む人形」は、物寂しい雰囲気と、理性的に敷き詰められた形式感、ちょっとものを訴えているような主張の強さなどをシュールレアリズム的にまとめて表現したものである。
(余談だがYoutubeのアップロードで見落とした動画の再アップロードなので時系列がめちゃくちゃになっている)


無題 2021/02/28

気ままに作曲シリーズ 2021/2/28作曲。
ベートーヴェンの初期ソナタのようなフレーズから始まりそれを脱構築していく曲。EメジャーにみせかけてC#マイナーの旋法の曲である。一瞬古典派に戻るが、またラディカルな激しい主張の響きへと回帰したりする。結果、最初のモティーフはもともとマイナーの音楽であったかのようにすりかわって終結する。


鋼鉄街の一日 2021/03/12

気ままに作曲シリーズ2021/03/12
この頃から明確に「デタラメ和声」の意識をもって書く作品が増えたように思える。デタラメ和声とはつまり、一聴してまとまっているように聴こえるのだが、ディティールを見ると、旋律とベースが一致しておらず、和声学的に見れば「なんとなく転位音をぶつけた」「説明のできない不協和音を直接当てる」破綻した音使いしかない和声である。
ただし、作曲者としては近代クラシックのように新しい響きを求めて不協和音を露出したいわけではなく、「一聴してまとまっているように聴こえる」ことが何よりも重要であり、ある意味で粗製乱造物をあえて作る、という感覚をコンセプトとして考えている。

この曲から一例を上げるならば例えば下記部分である。

赤色:ここのAmaj9 (?) は奇妙な和音である。旋律が「シーシド♯シーソ♯ミファ♯ー」なのだからF#マイナーの和声を当てればいいのだが、ベースはその前の「シ・ファ♯・ド♯・ソ♯」の5度の流れに沿って「レ・ラ」と半ば強引に当てはめている。
後続する和声もE9コード→Aの解決と考えれば説明はつくのだが、その前の和音が謎の和音のため、どうしてA和音で解決するのかが説明できない状態となっている。そもそも「シーソ♯ミファ♯ー」の進行自体が本来ならばC#マイナー7→F#マイナーの解決なのに、この曲はドミナント位置が「ファ♯」の方についてるため、若干旋律からみても破綻してはいるのだ。
にもかかわらずフレーズ終わりは落ち着いてるのでなんだか説得力があるように聴こえる。まるで詐欺師の所業である。

青色:D#m7の和音だが、旋律はその7度音であるド♯に落ち着いている。もちろん和声学的にはひねくれた行いである。

緑色:前の旋律を繰り返せばある程度は許容できる、とでも言いたげな音のはめ方だが、レとレ♯の音がぶつかっており、これに関してはコードで説明することも不可能である。あえていうなら、Dメジャーの上にF#マイナーのリディアンスケールが乗っかっているような状態である。

こうした「デタラメ和声」が、では何に基づいて音を配列しているのかと言うと、旋律の歌い出しと末尾がまとまっていること、そして、音痴が歌っているかのような不明瞭な音高とリズムの感覚のみで音を組み合わせていることである。
どんなに自由な和声をあてたとして、唄としてラディカルに心に届く音使い出ない限り曲には性格が現れない。だから、メロディが率直であることは何よりも大切にしている。


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