風に恋う|第1章|06

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「お父さんもねえ、せめて学校を出るときに一言連絡をくれればいいのよ。瑛太郎君を連れてくるんなら、もっと若い子が喜ぶもの作ったのに」

 愛子さんはそんなことを言いながら、鍋から肉じゃがをお椀に盛る。瑛太郎はそれを受け取り、居間へと運んだ。三好先生は、座椅子に腰掛けてテレビを見ていた。

「三好先生、愛子さんがご立腹ですよ」

 卓袱台に肉じゃがを置くと、千学吹奏楽部顧問の三好先生は、「だいじょーぶ」と笑った。昔はふっくらとした体型だったのに、現在は肉がそげ落ちたように細くなってしまった。

「久々に瑛太郎が来てお母さんも喜んでるから、プラスマイナスゼロ」

 ご飯と味噌汁ののったお盆を抱えた愛子さんが居間に入ってきて、「お父さんが言うことじゃないから」とぴしゃりと言う。

「瑛太郎君は遠慮しないでお腹いっぱい食べて帰ってね」

 愛子さんに言われるがまま、瑛太郎はいただきますと合掌した。

「初日から悪かったな。ほとんど瑛太郎に任せちゃって」

 ジャガイモにふうふうと息を吹きながら、三好先生が言う。茶色く透き通った玉ねぎと一緒に白滝を搔き込みながら、瑛太郎は頷いた。

「本当ですよ。いつになっても音楽室に来ないから」
「悪い悪い。職員室でいろいろ手こずってたんだ」

 瑛太郎は今日から吹奏楽部のコーチになった。教師ではなく、顧問でもなく、部活のみを指導する外部指導者に。初日の今日は、三好先生が瑛太郎を部員達に紹介するはずだった。なのに肝心の先生がいつになっても現れず、結局瑛太郎が一から説明する羽目になった。

「でも、不破瑛太郎が来たとなったら、あいつらも喜んだだろ?」
「驚きすぎて引いてるように見えましたけど」

 二、三年生は今日から外部指導者が来るとだけ聞いていたようだけれど、何もわからない一年生は、さらに驚いていた。

 特に彼――茶園基という男子生徒は、今にも口から泡を吹きそうな顔をしていた。その顔を見て、なんとなくわかった。彼は、テレビの中の不破瑛太郎をよく知っている。そして多分、憧れてもいる。これは厄介だなと思った。骨が折れるぞ、とも思った。

「頼むぞ、瑛太郎」

 黙ったまま肉じゃがと米を交互に口に運んでいた瑛太郎に、三好先生が投げかけてくる。

「正直、俺じゃあもう無理だ」
「らしくないことを言いますね」
「もう体がついていかないんだよ。あいつ等を全国に連れて行くには、俺じゃあ駄目だ」

 全日本吹奏楽コンクールは、吹奏楽部にとっての甲子園だ。かつては東京の普門館で行われていたが、ここ数年は名古屋国際会議場のセンチュリーホールが会場になっている。

 そこへ至る道は、長く険しい。

 埼玉県にある千学の場合は、例年七月下旬から八月上旬に行われる地区大会を皮切りに、県大会、西関東大会を突破する必要がある。各大会で金賞を勝ち取って上位大会への推薦団体に選ばれた末、全日本吹奏楽コンクールが行われるのは十月。長い戦いの中で、五十人以上の高校生を相手に、課題曲と自由曲を金賞レベルに持って行くのは、至難の業だ。

 何より、埼玉県は強豪校がひしめき合う吹奏楽大国なのだ。病を患った三好先生が「もう無理」と言う気持ちは、わからなくもなかった。

「お前達が卒業してから早六年。全日本どころか埼玉県大会も突破できず、ここ三年は金賞も取れない。部の雰囲気はどんどん緩くなって、とどめは顧問が心筋梗塞だ」

 先生が心筋梗塞を患ったのは一年前。一命は取り留め、職場復帰も叶った。しかし以前のように勤務することは難しく、この一年、体調を崩しては入退院を繰り返している。

 瑛太郎にコーチの話が回ってきたのは、先生が去年の秋に検査入院をしたときだった。

「それで、大学を出てたった二年の俺ですか」

 高校三年間、親よりも長い時間を共に過ごした恩師から部を任せてもらえるのは誇らしい。でもそんな気持ちの裏に微かに、買い被られているんじゃないかという疑念が覗く。

「黄金世代が部を指導し、もう一度全日本に返り咲く。学院側に夢を見させるには充分だ」
「その黄金世代をもってしても、全日本に行けなかったら?」
「どうなるだろうなあ……。部員がいる限り廃部はないだろうが、別の教員を顧問にして、違う形の部になるかもしれない。今の千学は、進学実績のアップに一生懸命だし」

 それは、あくまで大学受験を目標とし、その妨げとならないよう活動する部だろうか。コンクールにも出ず、練習時間も短くて、厳しい練習もなくて。さすがにそれはOBとして看過できない。何より、今の吹奏楽部の状況は、見ていられなかった。

「やれるだけのことをやります。でも、結果がついてくるかどうかは、生徒達次第です」

 幸い、他にやることもないですしね。笑いながらそう付け足すと、ずっと黙っていた愛子さんが苦笑した。

「笑い事じゃないでしょ。コーチとか外部指導者とか、聞こえはいいかもしれないけど、お給料は微々たるものだし。今の瑛太郎君、フリーター状態なんだから」




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『風に恋う』|額賀澪|試し読み

突然部長に指名された1年生と、過去の栄光から逃れられないコーチ。吹奏楽部を率いる二人は、全日本コンクールへと行けるのか――?【文藝春秋より好評発売中の吹奏楽×青春小説『風に恋う』の試し読みです】装画:hiko/装幀:川谷康久
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