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祖母の一周忌

昨年の6月6日、祖母が亡くなった。

その2週間前から食べれず飲めず。コロナ禍において、特別養護老人ホームも最期を見越して何度も招き入れてくれた。

だから、夜9時に「息をしていません」と連絡をいただいたときには、孫の私は苦しみから逃れることができた祖母に、よかったね、という気持ちだった。享年94歳。

でも母1人子1人の我が母は同じようには思っていなかった、と一周忌で改めて知った。「まさかあの日に亡くなるとは思わなかった」と、まさに今日つぶやいていたので。

昭和3年に京都の中心地で生まれた祖母は、青春の終わりが終戦だった。そんな時代背景の中、早くに生母が亡くなり、継母イジメに逢い、10代で柳行李一つで嫁がされ、嫁ぎ先でも不遇で、母を身篭っているときにそこから逃げ出し、未婚のまま(男子が生まれてからしか入籍しない風習だった)私の母を育てた人。

カジュアルに言えば昼ドラみたいなシチュエーション。

でも祖母は強かった。実家にも頼れない、身寄りのない見知らぬ土地で、材木店で働いていたらしい。保育園もなくて、母を材木屑で遊ばせながら。

その後、縁で布地屋を任せてもらったり、温泉旅館の中居をしたり。私が生まれた頃は中居をしながら、母のために連続勤務後にまとまった休みを取って、隣県の孫の面倒もみにきてくれた。

母は祖母の愛を十二分に感じとっていて。女子は中卒でも違和感のない田舎で、高校から専門学校に行かせてもらったのも大きい。

シングルマザー、ましてや私生児なんて1人もいない環境で、小学校1年生から単独で歯医者に通ったことに恨みももたず。祖母が言わないことは聞かないと、とうとう自分の父が誰かもわからない状況も許容した。

時代の違いはあるが、なんら娘を助けなかった財力ある曽祖父(祖母の父)はクソ野郎だし、嫁ぎ先のクソ田舎も反吐がでる。と思ってしまう、全く可愛げのない孫の私。

だから、昔ながらの◯◯とか、意味のない慣習とか、男尊女卑とか、基本大嫌いなんだろうな。

しかし、祖母も母も、世の中にも他人にも暴言を吐かない、真の強い人で。

祖母はお上の世話(つまり生活保護)にはなりたくないと、70歳まで工場のパートをしていた。

でも苦労ばかりではなく。園芸が大好きで編み物もプロ級で、お友達と沖縄とか北海道とか旅もたくさんして。自分の意思も意見もしっかり持ち、いつも身綺麗にしていた。

確かに人生の最後の10年余りは認知症だし、何度も死の淵にたったけれど、デイサービス・施設には可愛がられたし、なにより母と暮らせたことは、単純に不幸とは言えない。

もちろん、簡単に言語化できないさまざまな状況が、脳裏にはまだたくさん浮かんでくるけれど。

一周忌の今日。まさかコロナがまだこんなに影響しているとは、想像だにしていなかった。母は一周忌にどうしてもちゃんと会食して、孫の私たち三姉妹一家と集まりたかっらしい。

よし!それくらいの願いは叶えましょう。オーストラリアに住む妹夫妻は日本料理店で、横浜に住む妹一家は割烹料亭で法事弁当を用意し。花を送ってくれた。

私は百貨店に注文した弁当を取りに行って、自宅に置いた後で実家に行き。

四家族をLINE電話で繋げ、簡単だけど仏壇と会食を中継し、無事を喜びあった。

母が望んだ通りとはいかないけど、今できることは全てした。祖母を想う日を作れてよかった。

さまざまな出来事に追われ流される毎日、コロナ禍だからとあきらめる日常の中、感情にも知らない間に蓋をしているところがある。まあ、単純に加齢もあるのかも...

でも今日は母の想いに従ってよかった。私も琴線に触れることができた。その勢いで祖母のことを書いてみた。毎年思い出せるように、web上に心の居場所を作っておきたくなった。


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