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私のnoteに対する向き合い方

以前に発信していたブログからあまり変わらないのですが、何者でもない、一介の社労士&母親(転妻)である私が、インターネットという外の世界に通じて何かを発するときには、

1人でもいいから誰かの役に立つといいな

と思っています。かつてお知り合いから「あなたの発信は(お役立ち情報を発信する)allaboutみたいだね」と言われたこともあり、うまいこと言いますね、と妙に納得。

いまでもそうですが、文章を書くということにかなり抵抗感があった私は、5年以上前に文章講座(ライター向け)を受講したことがありました。

そこで、「ある出来事に対して、必ず賛成意見と反対意見がある。ただし、「どちらの意見もわかります」的な内容ではエッジが立たず、文章として際立たない。だから、かならずどっちかに寄って書け」、と習いました。

そのことはどこか頭の片隅に合ったものの、あまり意識せずにいて。また数年前にプロの作家の方に質問する機会があり、お伺いしたところ

「どちらかの意見に寄せるというのではなく、自己の主張がどちらかであったときに、かならず反対意見を意識して書き、その意見を論破しておく。」といったような答えを得て。この炎上時代、それは大切なんだなーと思いつつ、でも結局はこの方はいつも自分がどちらかのポジションに立つ内容について、チョイスして書かれているのではないかと、ぼんやり思いました。当たり前ですよね、作家さんですから。

歴史をたどると、女性参政権を獲得したり、セクハラ・パワハラが問題として浮かび上がってきた背景には、たくさんの個人の方が運動をおこしたり、裁判等で争ってきたりした過程があります。その中では、世間的な批判を浴びながらも、しっかりと自己の主義・権利を主張してきた個人の方の苦労がある。そういう過程を経なければ世論を動かし、法を改正することはできませんでした。

裁判というプロセスを経て、同様の事案が多くあり、長い年月をかけて要件が定まり、それが法に落とし込まれる。それも、必ずそうなるとは限りません。そんな中、勝ち得てきた権利は本当に尊いです。

そして、そうした事案に対して、作家の方やジャーナリストの方々がどちらかに寄って自己主張をし、いい意味で世論を喚起する役割を担うのです。

ただ、最近はそれがとっても簡易にできるようになってきました。SNS等のインターネットの世界があるからです。「保育園落ちた死ね」等、ひとつのつぶやきが世論や制度を動かくムーブメントの大きな端緒になったりします。このカジュアルさは昔は無かった。

だから、割と多くの人が作家の方やジャーナリストの方に近づいています。

翻って私、社労士という職業柄からも、どうもバランスをとりたがる性質があります。あと、純粋にその出来事に対してはポジション真ん中なんですけど...という感じ。

上記のようなSNS時代において、これって自分自身が日和見的なのかなーと自虐しつつ、でも日和っているわけじゃなくて、本当にこれが私の考え、意見なんです、ってことがほとんどです。まあ、だからなのか、子どもの頃から作家やジャーナリストを志向したことはないのですが。(というか、能力的にそんな文章が書けないですね。)

あ、もちろん、これは絶対にダメ!っていう出来事はあります。いくら反対意見があったとしても、これは絶対にダメっていうもの。私の場合でしたら、親による幼児の虐待。これは絶対ダメ。たとえ、親が自分も虐待を受けていたり、不遇だったりしてもダメです。これは絶対譲れない。

ただ、近頃の出来事には本当に白黒つけがたい事案や、個別具体的な事案にもかかわらず一般的に論じられてしまっているもの、直情的に考えていまはそうかもしれないけれど、長いスパンで見るとどうなの?っていう出来事が本当に増えているように思えます。(いわゆる複雑系)

簡単にこたえが出ない、もしくはよくわからないことに対しては、考えている過程を示すことくらいしかできず、知ったかぶりはもっとできず。それでも思わず発信せずにいられない

そんな時代において、一個人である私がこのnoteにどう向き合うのかと考えてみたとき、

やはり、ただ、私の考えていることが1人でも役に立てばいいなーと思う内容を、これからも綴っていけたらと、改めて認識しました。

そんなこんなで、自分を棚卸してみました。






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