いとうト゚む

ひとたびでたひと 2度の大学中退 2度の自殺未遂 IQ137(CAMS)

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同一視による比較

リレーショナルデータベースの半壊は同一視による比較である。特定のレコードを取ってきて、ある基準(カラム名)に基づいて、それ/それらがどこに位置するか(埋め込み/エンベッディング)を定め、同じ物差しで比較できる。一方、日常的には、人の人への官能評価は、同じ基準でなされることは少ない。この人はこんな良いところがあるとか、この人には他の人にはないこうした魅力があるというような。これらを無理やりリレーショナルデータベースで表すと、ダミー変数でその性質を有するか二値で分類することになり

    • アカデミアのふきょう

      アカデミアの在籍者/出身者に特有な、ある学問への実直な勧誘が手放しの憧憬と食わず嫌いを生んでいるのをよく見かける。例えば、論理的思考力を身につけるために数学を学ぶべきだという主張は、数学にコンプレックスのある者にとっては、数学ができる人を羨む以上の効力を持ちはしない。精々、聞き齧った数学用語を並べて自分が数理系への造詣もあるのだという表層的なアピールを促す程度だろう。数学が全くできない人でも論理的思考力を身に着けている人はいる。数学というコンテンツを学ぶ過程で論理的思考力とい

      • 完全な人間の代替の過程

        各学問には目的がある。 例えば、物理学では世界の法則の(数学的)記述だし、心理学では心を測定、可視化、分析し、操作・管理することである。 その点、AIは学問ではなく、どちらかといえばマーケティング用語だが、その学問的側面は人の知能を完全に再現する、もしくは人とは違う方法でより高い知能を実現することだ。この前者には、人間を完全に代替しようという希望/絶望が見え隠れする。

        • バッググラウンドムービー

          なにかの作業をしながら音楽を聴くのは昔からやっていたのだけれども、ここ数年は何度もみたアニメや映画を流しながら作業をする。個人的にこれをバックグラウンドムービーと呼んでいるのだが、何度も観ている作品でも聞き流していると毎度発見がある。というよりそういった玉ねぎみたいな作品が好きなのだと思う。あとは、言葉をたくさん話してくれている作品のほうが好きのようだ。

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        • ひとたびたびでる
          4本
        • 枝葉節
          12本

        記事

          Tokentube

          昔どっかに出したやつー。 新しいプラットフォーム「TokenTube」は、革新的なアプローチで動画視聴体験を変革します。TokenTubeでは、視聴者はデフォルトで与えられたトークンを元手に、お気に入りのクリエイターのチャンネルをサブスクライブします。このトークンはプラットフォーム上での視聴者の価値を表し、視聴者がチャンネルの成長に貢献すると、トークンの数量も増加します。 動画投稿者は、視聴者からのトークンに応じて収益を得ることができます。クリエイターのチャンネルが伸びる

          世界は縦長か、横長か

          縦型動画が流行っている、なんて言葉に出すようでは流行に遅れていると思われるほど縦型動画が席巻している。しかし、人間の視野角は左右では180°以上あるものの、上下では130°程度であり、生態的には僕らは世界を横長で捉えている。高柳健次郎が作った世界初のブラウン管テレビは円形だったものの、これは技術的な制約を受けてのものであり、それ以降は映像装置は横長に進化していった。人は元来、横長世界の住人といえるだろう。他の生き物はどうかといえば、環世界という言葉を出さずとも生き物がどういう

          世界は縦長か、横長か

          ライ麦畑でつかまえて、という誤訳は名訳

          サリンジャーの小説、ライ麦畑でつかまえて、は村上春樹訳だと原題をそのままカタカナにした、キャッチャー・イン・ザ・ライ、と著されている。そのため、野崎孝訳である、ライ麦畑でつかまえては誤訳である、という意見を見たことがある。 そもそも、このライ麦畑の捕手というのは、背の高いライ麦畑が崖だかに生えており、そこで子供が遊んでいると誤って落ちてしまうので、そうならないように捕まえて元に戻してやる、そんな人に私はなりたいというような話であった。しかし、この小説の主人公がまさに崖から誤っ

          ライ麦畑でつかまえて、という誤訳は名訳

          orz

          色んな人の話を聞いていると、アイディアが全くない人というのはあまりいないように思う。欲がない世代、乾けない世代なんて言われるが、構想も野望も下心も持っている人が結構多い。しかし、大抵の人には力がないか、熱意がないか、日々の雑事で満足している。それで良いとも思いつつ、不幸そうな面をみているとなんとかしたくもなる。誰も彼もがイノベーションを起こすとたまったもんじゃないが、何もできないと悲観して学習性無気力に身を任すのは辛いものがある。金がないと嘆いていた人がお金を手に入れて真っ先

          アオクサイモウゲン

          障害者を支援する施設で、こういうことができてないからだめだとか、それじゃあ社会でやっていけないよだとか、そういう罵り合いを見ていてとても悲しくなる。できないことを指摘すること自体はもちろん否定しないし、変わる努力とか認める自覚とか忘れてはいけない、しかし、世間や社会の常識では包み込めなかった人たちがたどり着いた場所でも、互いを認め合うのではなく、結局は社会にされたように同じことを繰り返す。むしろ、そういう人が集まれば軋轢は大きくなること仕切りなのだろうよ。そして、彼らは普通の

          アオクサイモウゲン

          ばらバラナシたい

          メモ帳にあったので。 インドのバラナシに来た。ヒンドゥー教の聖地、ガンジス川が横を流れる街。皆が人生で一度は訪れるべきだと云った街。生まれ変わるならこの街でと口々にインド人が云う街。僕はここで何を感じているのだろうか。話す必要に駆られる空間の中で自分の無力さに打ちひしがれるためにここに来たのだろうか。 死生観、みたいなものを見たかったのだろう。 人が目の前で焼かれているのを見て、一ミリも死生観が揺らがない、それほど死と友達になっていたのだろうか。 とにかくこの居心地の悪さ

          ばらバラナシたい

          忘食

          旅の最中は、日々の関心は主に衣食住であった。今日どこに泊まり、どんな物を食べて、洋服を洗濯する場所があるかどうか。そこでは効率という単語はなかなか出てこない。しかし,日本に帰ってきて定住をすると、気を抜くとご飯を食べるのを忘れるし、忘れ物も多くなり、周りの景色を見たりする時間が圧倒的に減った。懸念していたことが現実になるのを目の当たりにすると、人がいかに環境の生き物であるかを実感すると同時に、意識的に環境を整えねば元の木阿弥になるだろうことは容易に想像がつく。

          渡り鳥のためいき

          車輪の再発明的な文章だが、書かずにはいられないのでここにおいておく。 特定の技術の登場による未来予測には面白さはあるもののかなりの限界がある。極端なユートピアやディストピアの想定は人間存在を見直すうえで重要であるものの、線形思考に基づいたそうした未来は到来しずらい、むしろある地点における予測を技術が発展するたびに更新しておくべきだ、渡り鳥のように。ただ、問題は技術の発展が早すぎることでこうしたスクリーニングがなされる前にあるシステムがそうと知られる前に社会に敷衍してしまい、取

          渡り鳥のためいき

          善意の出汁

          善意にもする人とされる人がいる。善意は行う主体にとっての善だと感じられるものであり、善意を受ける人にとっての善であるとは限らないが、善意を行う人にとっては関係がない。しかし、善意であるという態度が認められると、それを断ること、受け入れないことは無礼であると考える人がいる。善意なのに無下にするのか、と。だから善意は悪意よりも押し付けがましいと感じる。ただ、善意自体は否定しない。むしろ、好ましいのだろう。必要なのは善意ー被善意のマッチングだ。する善よりされる善、という善の形もある

          首奇

          年齢を尋ねられると、どうして後ろめたいと感じるのか? どうして給料を聞かれると、恥ずかしいと感じるのか? どうして学歴を問われると、心苦しいと感じるのか? いつからそう思わされるようになったのだろうか。 若ければ偉いと思っているのか 給料が高ければ能力が高いと思っているのか 学歴が良ければ賢いとでも思っているのか 意識すると吐き捨てたくなることばかりだが、これらについて聞かれたとき、僕の頭は無意識に防衛心を張り巡らせる、そして時には我が身可愛さに信念に反して嘘を

          旅に出て初めてメンサで良かったと思えた話

          僕はメンサという、いわゆる高IQのコミュニティに入っているのだが、日本では大して活用してこなかった。精々ボードゲームをしたりクイズをしたり、社会人クラブという感じで、仲の良い友人が数人できた程度であった(それだけでも十分なのだが)。しかし、メンサは国際組織、旅に出るのに使わない手はないとそのことを相談すると、各国の人がその国を訪れた人をコーディネートしてくれる仕組みがあることを教えてもらった。 そして、シンガポールやマレーシア、インドでメンサの人たちにあった。 インドでは奨学

          旅に出て初めてメンサで良かったと思えた話

          怒りの矛先

          インドのチェンナイという街で、外国人だからという理由で予約したホテルを3度も追い返されて、炎天下の中4時間も歩いていた。そうして街なかで歩いていると珍しい動物でも見るような眼差しを向けられた。そして道行く子供にズボンを指さされbaggieと呼ばれた。 僕はこの日、もうインドなぞ懲り懲りだと思った。しかしこの前日、僕はインドのメンサ3人と会っていた。インドメンサが貧困層のギフテッド教育プロジェクトを行っている話をしながら一緒に食事をし、僕の要望でインド工科大学マドラス校を案内し