自己紹介と当面の読書指針

こんにちは。nullmiyaといいます。
読み方は定めていないので、ぬるみやとか、なるみやとかお呼びください。

国際共産主義運動史・分析哲学・戦闘美少女に関心があります。
noteでは日記兼読書記録を書いていきます。

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最近、ちょっと手応えを感じた絵を貼っておきます↓
デッサン狂いや作画ミスはありますが……。

その他に語るべき自己はとくにありませんので(わたしの私生活は荒凉たるものです)、以下、当面の読書の指針について書きます。
スタイルとしては、わたしの世界観を開陳することで、どういう関心のもとでなにを読んでいこうとしているのかを示していきたいと思います(書きながら考えてます)。


A.世界史の袋小路としての現代

わたしがものを考えるにあたって指針とする発想のうちのひとつに、「世界史の袋小路としての現代」とでも言うべき現状認識があります。

なにが袋小路なのか?

まず第一に、社会主義の理想がほとんど完全に破産してしまったという、進歩思想の行き詰まりが念頭にあります。19世紀以来、数多の人々がそのために英雄的献身をなした社会主義の理想ですが、これはソ連崩壊を以て最後的にポシャってしまったと言っていいでしょう。
そして、そのこと自体は大変素晴らしいことだと思います。社会主義って、まぁ、いろいろな流派はあるようですが、要するに、経済活動の全部を役所とか生協とか国鉄とかPTAみたいな仕方で運営しましょうということでしょう? そのような、市場的ドライさを欠く息の詰まるような世界、貧乏くさい世界にわたしは寸毫も堪えられない。

しかしながら、社会主義の理想の破産には、進歩派インテリの世界に空間識失調を引き起こしてしまったという負の側面もあると思います。すなわち、かつての進歩派インテリは、きたるべき新社会の姿を理想とし、そこからのズレとして資本主義の矛盾や封建遺制の桎梏を撃つことができていた。しかし、その理想社会の像は、スターリン批判や中ソ論争やプラハの春を経てボケボケになった挙句、ソ連と一緒に滅んでしまった。歴史の終わり。
するとどうなったか? グローバル資本主義+リベラルデモクラシーに代わるオルタナティブを提示できず、ただ「反○○」を唱えるというのが進歩派の定位置ということになった。これでは人心は集まらないでしょう。グローバル資本主義+リベラルデモクラシーには、なにか上手く運んでいない点が確実にあるというのに……。

加えて第二に、現存国際秩序についても、袋小路とでも言うべき特徴があると思います。というのは、世界史をゲーム的に眺めてみると、世界政府/世界連邦が形成される前に核による恐怖の均衡が成立してしまい、主権国家の並存状態が奇妙に凍結されて残存してしまった、という側面がある。
そして、この奇妙に凍結された国際秩序は、一方では世界単一市場化との食い合わせが悪く(資本逃避やタックスヘイブン、国際規制の問題)、他方では現存秩序形成過程での敗者に対する抑圧として機能している(パレスチナ問題などが典型でしょう)と思います。

ここまでをまとめると、こんな感じでしょうか:わたしは、「世界史の袋小路としての現代」という現状認識を持っており、そのドン詰まり性を、とくに、理想社会像の消失という社会哲学・社会思想の面と、デッドロックに陥った国際秩序という国際関係論の面とから捉えていくことができる、と考えています。

では、そういう現状認識のもと、なにを読みなにを考えようとしているか?
あくまで市場原理を踏まえた上での、世界革命による世界共和国の樹立という夢想がほとんど口から出かかりますが、これについては結論を出すことができません。いまはただ、次のようなテーマの文献を読んでいこうとしています、とだけ書いておきます:
ドイツ革命の敗北と初期コミンテルン世界革命構想の挫折/現実主義的な勢力均衡を中心概念とする国際関係論/冷戦と福祉国家・混合経済の歴史/破れかぶれのオルタナティブとしての加速主義/長期停滞論

B.キャンセルできない幻想としての価値世界

さて、勇ましいことをさんざん書きましたが、国際共産主義運動史を学ぶにつけ、繰り返し繰り返し思い知らされるのは、その血塗られた馬鹿馬鹿しさであります。モスクワ裁判、ルイセンコ学説、文化大革命。等々。
総じて、ボルシェヴィキの流れを汲む党とその運動は、まっとうな経済活動、まっとうな科学、まっとうな文化に対して、益よりはるかに大なる害を及ぼしてきたという印象を持ちます。

加えて、わたしは長い間、分析系の哲学伝統に親しんできたため、マルクス系の方々から寄せられるイデオロギー論的な批判(ブルジョワ科学だ!)について、閉口することしきりだったという事情もあります。

なので、山宣が、渡政が、多喜二が、野呂栄太郎が岩田義道が市川正一が、そのために殉じた国際共産主義運動の赫きは永遠に不滅だと信じますし、世の中をよくするためにはその熱情の伝統を深く噛み締める必要があると確信しますが、具体的に現代社会の諸問題を考えるにあたって、その伝統に棹さすのはかえって有害だと考えています。

では、マルクス・レーニン主義の伝統に代えて、なにを支えに社会変革について考えようというのか?
これについて、わたしが近頃関心を寄せているのは、オットー・ノイラートの方向性です。つまり、科学的世界把握にもとづいた合理的な社会革命ということを考えたい。ここでもちろん、「科学的」の内には社会科学も(なんなら人文学だって)含むものと捉えています。

より内容的に踏み込んで言えば、こんな感じで規範理論に臨むといいんじゃないか、という発想を持っています。

  • メタ規範論、ないし、規範的なものの存在論や認識論や意味論について。これについては、主に認識論的な困難から、規範的なるものなんて不可知だよ(だから無いよ)みたいな方向性がもっともplausibleなんじゃないの? という立場。テーゼ的には「幻想としての価値世界」とでもまとめられるでしょうか

  • しかし、だからといって、規範的判断を単なる決断の問題として片付けることもできないと思っています。というのは、人間社会の秩序というものは、恣意によりデタラメに画しうるものではなくて、進化的に彫琢されてきた心的諸モジュールから成る諸主体の相互作用の所産でしょうから。価値世界の本性は幻想であるにせよ、それは、その中を生きる個々人にとってみれば任意にキャンセル可能なものでは断じてない。懐かしいアニメの台詞を引けば「消えない幻はすでに現実」ということです

  • で、そういう「キャンセルできない幻想」という価値世界の特徴を踏まえた上で、人間存在というハードとかOSとかの上で実装可能な規範秩序の姿というものには一定の幅があるし、その有効性についても大小多寡を論じることができるはずだ、ということを考えます

だいたいこういうことを妄想しています。そのため、読書の指針としては、1ポチ目についてメタ倫理学、2ポチ目について進化心理学+ゲーム理論、3ポチ目についていわゆる政治理論や規範理論ぽいものを読んでいこうということを思っています。

C.虚無の海にうかぶ必然系

ここまで、わたしの読書関心について、国際共産主義運動史と、分析哲学というお題で書いてきました。そこで書いてきたことをまとめると、こんな感じでしょうか:社会主義失効後の現代にあって、国際秩序の八方塞状況を打開しうるような社会変革構想を考えたい。それにあたっては、実証諸科学による人間存在の特徴の解明の成果を下敷きにしたい。

で、これについての率直なわが感想は、
あほらしい。どうせ死ねば無になるのに。
というところです。

要するに、虚無主義の問題がへばりついてくる。

この虚無主義の因ってきたるところは思うにふたつあって、ひとつには、「消えない幻はすでに現実」っつったってそれは幻じゃんね、というデタッチメントというかインポテンツみたいな幻滅の問題。そして第二により深くには、世界とか社会がどーなろうがそれがわたしになんの関係があるんだ? という単独性と個別性みたいな問題。

これが、ほとんど突飛でしょうけれど、戦闘美少女ということを考えるわたしにとっての必然性ということになります。

(未完)

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