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子離れの前に自分離れだった_100日後にZINEをつくる、94日目

本当に自分は人の話がきけていない。と痛感することが今年に入って続いている。

たとえば娘が面白かった本について高い熱量で感想を語っている時。
わたしの頭の中では「その本が面白かったなら、これも面白く感じるかもしれない」スイッチが入る。
気づけば娘の話は、母のおすすめしたい本の話にすり替わっている。

友人から「最近、○○に興味があって」と聞く。その瞬間に頭の中で「ラジオはこれ、漫画はこれ、映画はこれ」と考え出す。さらに恐ろしいことは、頭の中にリストアップしたコンテンツを自分が全て未読、未視聴だということ。自分が「とりあえずラジオ聴いて基本情報入れておこう」などと考え出すことについては、我ながら意味が分からない。

どうして、ただ相手の話をきけないのか。

「そっか、その本をそんなふうに楽しんだんだね」
「どんなきっかけでそれに興味もったの?」
それだけでいいのに。

ただそれだけができずに、相手に差し出せるものを探して自分の引き出しを探ることに忙しくなるわたし。

うちの本棚を眺めていた母が「これ、知ってる!」と文庫を指さす。うん、映画で1を観たら面白かったから原作を読みたくて三部作全部買ったのよ、と伝えると、「1しか観てないの?私は全部観たよ。すごい面白かったよ!このあと主人公は~」と映画の内容が語られる。「とりあえず2を早く観なよ!」でフィニッシュ。
えぇ?う、うん(今わたしが映画観て原作を読みたくなったって言ったの聞いてた?というか、あんたナチュラルにネタバレしてくれたよね。)

この見事なまでの「相手の話をおかずに自分の話したいことをまくしたてる」手腕。
母よ、あなたは間違いなくわたしの母だ。

人はどうして、頼まれていないのに、差し出す行為がやめられないのか。

・相手の役に立ちたいから
・相手に喜んでほしいから

自分が相手にとってhelpfulな存在だと思うと、自分の価値が上がる気がする。自分が与えたものに対して、相手が喜ぶ様子を見て満足することは、支配欲とどこが違うのか。
結局「相手のため」でコーティングした「自分の価値をあげるため」の行為だ。やめられなくなって当然。

「知りたいことは自分で調べる力をつけなさい」と子どもたちに言いながら「ママのおすすめ」を差し出し続けるわたし。
子どもの自立を望みながら、毎日子ども部屋の掃除をする母親。
両者に違いはない。
ダブルバインドは、支配するのにとても効果的。

他者と向き合うと「相手にとって有益でありたい欲求」が腕まくりをして肩をまわし始める。そして、自分が<モノ持ち>であることを証明することに躍起になる。

自分の価値を高めようと、わたしの中のお節介オカンが手出し口出し世話をやく。

ホラ!これはブランドものだから喜ばれるんじゃない?これは知る人ぞ知るやつ。相手からもらう前に渡すのよ!これは〇〇さんが誉めてたから、きっといいやつ。もっと役に立てるように、必要とされるように、きちんと知識で着飾って自分の価値を認めさせなさい!

ババア余計なお世話だよ!と手を振り払えずに生きてきたわたしは、結果的に「ただの自分」の価値を下げながら生きてきたんだなあ。

手ぶらな自分でいられないことが、わたしが人の話をきけない大きな原因だ。

劣等感というゾンビがいつも両足にぶらさがっていたことも、自分の荷物の立てる音で人の話がきけていなかったことも、「命の絶対価値」という言葉にあれほど胸震えたのも、わたしが自分に世話を焼きすぎていたせいだったのか。

親離れ、子離れと同じくらい、自分離れできない弊害は大きい。

もう「相手に見せるために」背負っている荷物は全部降ろそう。
手ぶらぶらさせて歩くことが心許ないのはきっと、最初だけだし。

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