見出し画像

2/7

やらないといけないことがある。しかも今日までというかなり急なものだ。1/3は終わった。純情な感情。

タイトルを日付にしているせいで、否が応でも締切を思い出す。そしてもう2022年が始まってから1ヶ月も経ってしまっている。怖いことだ。小学生の時の1ヶ月なんて月水金と土日に塾に行き、人間関係と国語算数理科社会を学んでいた。なんたる23歳の怠惰。この三日間くらいyoutubeの長さの動画を見るのもしんどくてtiktokを見ていたくらいだ。数秒数分の刺激を大量にスクロールしている作業のような、摩擦のような。見た後には何もしなかったな今日、というような胸にざらつきのある後悔だけがうっすらと残る。大量消費社会〜と、自分の行いに対して皮肉っぽく言い訳をして逃げてみたりするけど、正直大量消費社会に対して何も理解などしていない。言い訳になっていない。何やねん。

私はまだ人に言ったことのない秘密が色々ある。いつか言うのかな、と割と頭の片隅にいつもある秘密もあれば、忘却の彼方にあったのが急に思い出された昔の出来事、それぞれ本人に言いづらい感情、など。好きなものは見せたくない派なのだが、わかってくれる人には見せたいという何ともわがままな感情も抱えている。香水も真似されたくない。不可侵の部分を作らないと、ブランディングで生きている私にとっては、それ以上入り込まれると空洞になってしまうから怖いのかもしれない。”本当の私”を他人に開示できている人なんて本当にいるのだろうか。他人が求めている虚像に向かって、あくまで自己ブランディングとしてそこに自身を持ち上げて行っているだけでないのか。これが円滑なコミュニケーションの折り合いの地点でもあり、自身を見つめ直した先の核の虚無なのかもしれない。”本当”でないことの悪さ良さ。”私”がぶれることの悪さ良さ。

自分の感情に鋭敏か鈍感かいまだに分かっていない。そもそも他人と比較するものでもないし、感覚だと思うけど、特に自分の感情がどういうプロセスを踏んできているのかが謎である。いわゆる意識高めの人たちを見るとモヤッとするのだが、ここでモヤッとする感情のプロセスが謎なのだ。別に悪口を言われてる訳でもなければ、害を与えられている訳でもない。仮説だが、勝手に惨めな気持ちになっている説はあるかもしれない。私の”惨め”な気持ちは、たまに現実の逃げ道として利用しているそれこそ惨めな時があるのだが、そういう惨めさとは違う。まぁなんだか良く分からないが、別に「気にしなくて良いじゃーん」的なものでもなく、ただそのモヤにつながる私のバイアスだったりコンプレックスだったりが知りたい。こう書いているとかなり自分に対して前向きに取り組んでいるなと思うけど、一方でまだ私と私の感情と肉体が乖離している気もする。前ほどではない。コミュニケーションをすることで、私は私として一体化しようとしている。

女子校出身かつ普段もほぼ女子としか接していないので、性自認みたいな話になった時に”私は女だ”と認識するのが生理の時だけという話をした。普段自分が”女”だと認識しなくて良い生活を送っているので、たまに”女”扱いされる時(同性異性問わず)にかなりびっくりする。そういう時ネガティブな感情につながってしまいがちなので、私はそこら辺で無意識的にミサンドリーなのだ。相手を人間であることよりも多分男性としてみてしまう(性別先行での認識)ので、これは唯一女子校出身であることの弊害かもしれないと思った。これを取り払うことができないと、私もいつまでたっても女扱いを受ける可能性がある。人は鏡なので。

紙の日記に最近書くことが増えた。でもキーボードで手打ちする方がすらすらかける。誰もみない日記より、ネットの海に解き放つことを前提に書く。セルフブランディング後の私が書いているからかもしれない。早く寝れますように今日は。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?