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10/21

タイトルに日にちを入れたらもう今年も10月なのかと感慨深くなってしまった。別にただの10月で私が23歳であるだけ。来年もそんなに気にも留めずにしれっと24歳になっているし、24歳の10月もしれっとやってくるに違いない。

最近は自分の好みがなんとなく分かってきた。好みに至るプロセスも含めて。だがなぜこれが好きになったのかの背景を考え出すと薄さが際立ってきてしまうような気がしていて未だに”なぜ好きか”に踏み込めないでいる。少しだけ覗いてはもう辞めようとする。

今日は高速バスの車窓が良かった。小林大吾の今日の中で急に部屋が半壊するも月が丸いから何もすることがない、数えてまどろむというような歌があるんだけど、車窓から見る無数の都内のアパートやマンションをただの背景でなく、人という感情のある生き物が重ねられた四角い部屋に一つずつ収納されていることを強く認識しながら見た。各部屋のベランダにかけられている布団や服、窓際の簾がすごく愛おしく見えるのと同時に、すごい壊したくなった。ショートケーキをフォークで刺すときみたいな。これは語弊がないように書き足すと、(その時の私はここまで考えてはいない。ふと湧き上がったピュアな気持ちだった)その破壊においての被害者や迷惑などを完全に省いて、単に人間の日々の営み、しかも家という生っぽい空間がありふれた外壁に包まれてなんて事のない顔をして乱立している、そんな”ボックス”を壊したらどうなっちゃうのか、ウェット&メッシーみたいな。

ついでに、車窓を眺めながら子供の時を思い出した。ついつい過去に浸るのはやめたいが、よぎってしまったものは受けいれるしかない。私はずっと連想ゲームみたいにぐるぐるしている。そんなこんなで、子供の時は車の後部座席の座面に完全に横になって、窓を眺めるのが好きだった。山の中は難しかったが、街中であれば空しか見えない。ずっと今走っているのは海の近くだと信じて横になっていた。そうすればワクワクするから。

文字化は大事。

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