音楽に感情の発露が要らなくなった時代に。

岡崎体育の「感情のピクセル」という曲をご存じだろうか。
とてもかっこいいサウンドに、とてもどうでもいい歌詞が載っている。
私は岡崎体育は好きだし、器用なことするなあ、さすがだなあと感心もしたのだ。
しかし、同時にある種の寂しさを覚えた。

この寂しさについて何年もかかって今、やっと言語化できるようになったので書く。
私は、「かっこいい音楽はかっこいい感情の発露である」と信じていたかったのだ。
この曲は、かっこいい音楽に思いは必要ないということを証明してしまった。

最近はミュージシャンのインタビューを読んでも、ニーズを読んで上手いこと作りました(要約)的なものばかりになったし、それが悪いことでもなくなった。
歌詞に意味がなくなった。
意味があるように見える歌詞を見つけて一瞬期待するが、「アニメのタイアップなので作品を読んで想像して書きました」とかで、やはりじっくり聞くと、作り手とその作品の主人公はほとんど重ならない。

これは最近始まったことではないのだと思う。
昔から、職業作曲家の大半はニーズを読んで上手いこと作って曲を売ってきたのだろう。
しかしシンガーソングライターは、一応はそれを隠す奥ゆかしさがあったし、業界の価値観もそっちに寄っていた。
だからリスナーである私は、かっこいい音楽は感情の発露であると夢を見ることができたのだ。

今でも、感情の発露として音楽を作って歌っている人はいる。
自分にはこれしか歌えないから、というタイプの人をもっと積極的に保全していきたい。
さらにいうと、天才的な器用さと、正直な感情の表現を同時にやってのける新人類もぽつぽつ出てきた。(それが誰かはここでは書かない。まだ確信が持てないからだ。)

器用さばかりもてはやされる時代の音楽の海から、「気持ち」というものを探し当てたい。

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