『主戦場』

2019.05.01 映画『主戦場』を観てきた。

『主戦場』は日系アメリカ人のミキ・デザキ監督の日本人、韓国人という立場から離れた目線から慰安婦問題について関係者からの聞き取りや過去の資料、インタビューによって構成された作品である。

僕は日本人である。正真正銘の日本人である。ずっと日本にいて、暮らし続けている。

その中で『慰安婦問題』について詳しく説明されたことも、聞いた事も、調べたこともなかった。きっとこれが日本人のスタンダードなんだと思う。何も考えないままあるハズの問題がある種の風景になっている。そして、きっとそれが、みんなにとって当たり前なんだろう。

だって、慰安婦問題って、韓国人がなんかよくわからないけど騒いでて、なんかよくわからないけどめんどくさそうで、なんかよくわからないけど変な事言ったら日本人に叩かれそうだから。

とりあえず、今回観て自分が拙筆ながら言語化できそうな感想としては3点ある。

①否定論者、修正主義者の想像力不足

②歴史的な問題と言うより人権的な問題

③慰安婦問題とは何かを日本人は知らない

そもそも慰安婦問題とはなんなのか、、、
第二次世界大戦下における、韓国などアジアから連行された性奴隷とも、ただの売春婦とも言われている。しかし、僕がここで最も重要だと思うことは、その時代、自分の未来を選択する機会を奪われ、虐げられた人がいたのか、いなかったのか、ということではないかと思う。僕はこの映画を観て、到底いなかったとは思えないという結論に至った。その上で感想を述べる。

まず、①である。

僕としては①で思ったことが今回1番大切だと感じている。

否定論者、修正主義者は『慰安婦問題』をなかったこと、合意の上で、虐げられた事実はなかった、と言う。要は今まであったとされている慰安婦問題がすべて日本には責任がなかったですよと言っているのである。

僕にはどうにも彼らの発言の中に差別や保身の存在が見え隠れしてしようがなかったのだが。

彼らの言い分は一貫して、証拠がない。慰安婦の証言には一貫性がない。である。

果たしてそうだろうか、性的な被害にあった、と言っている人の精神状態を考慮したとき、トラウマを被った人間が必ず精確な情報を客観視して話せるものなのだろうか。それを一貫性がない。などと断ずるのは個人的には腑に落ちない。

更に勇気を出して性的な被害を訴えた人に対して『そんな事実はなかった』とする営みは被害者の尊厳を著しく傷つけ、損なうものである。(作中ではセカンドレイプと表現されていた)

果たして、彼らは自分が全く同じ目にあった経験をしたとしたら、まだ同じことを言い続けることができるのだろうか、疑問である。傷ついた人の存在や尊厳を意識し、想像することができれば軽々しく否定できるものではないのではないだろうか。少なくとも『なかったこと』にはできないんじゃないのかな、と感じた。

次に②である。

慰安婦問題は、日本が悪かったのか悪くなかったのかを論点とする歴史的な問題と捉えるべきなのか、それとも、戦争下で人権を無視され性的な被害にあったのか、なかったのかを論点とする人権的な問題と捉えるべきなのか、である。

僕は圧倒的に後者の問題だと思ってて、今後二度と同じ過ちを犯すことのないように、議論していくべき問題なのだと思った。

最後に、③である。

韓国の人達の慰安婦問題に対する認識はどのようなものなのか、そもそも慰安婦問題ってなんなのか、日本人のほとんどはよく分かってないんじゃないかって話。慰安婦問題って実際何が起きたのか?なんて、みんな学校で習っていないし、社会に出てからわざわざ自分から知ることもないだろうと思う。だから、僕は全く知らないから疑問に思っていたし、今回『主戦場』を観て1回考えてみたいなって思ったから観た。その結果、考えるきっかけが出来たし、知らなかったことも知ることが出来た。僕は、今回観たものは作られたものである以上、なんらかのバイアスがかかってフラットに見ることができなくなっているんじゃないかという疑念もあるけれど、納得感がある部分も沢山あった。考えるきっかけとして、観てみることもいいんじゃないだろうか。

以上が『主戦場』の感想で、まだ1回観ただけなので拾えてない部分が多いけれど、今日感じたことです。