ボーカロイドは死んでいる

「呼吸してますか?」

生きているならしているに決まっているが、ホットヨガの講師はよくそのような声掛けをする。ヨガはまず呼吸に意識を向けることから始まるからだ。私のような素人はポーズを取ることに必死になると、その大事な呼吸を忘れるのだ。呼吸に意識を向けることを忘れると、つい力んでしまい、本来緩むべきところが緩まない。緩むどころか緊張して硬くなる。日常生活でも呼吸は浅くなりがちだ。呼吸が浅いと人は疲れやすくなり、眠りの質も悪くなる。深呼吸するだけでもストレスは解消されるので、お疲れの方はぜひ試してほしい。

最近の音楽について思うことがあってこの記事を書き始めたんだけど、雑に話すので雑に付き合ってくれたらいい。

生命は呼吸と共にある。この世の全ての生き物は、動物だけではない、植物ですら呼吸をしている。呼吸なんて無意識にするものだから、音楽にも無意識にプログラミングされているはずだ。歌はもちろん、オーケストラでも、管楽器は呼吸に合わせて鳴らすのだ。直接演奏に関係なくても、指揮者も息をするし、みんな呼吸しながら音を鳴らす。そしてそれを聴く人も呼吸している。

楽曲を作る人のどれだけがそのことに意識を向けているだろうか。何せ呼吸は誰もが無意識に行なっているので、あえて意識しなくてもそこにある場合がほとんどだろう。

では逆はどうだろうか。

ボーカロイドは呼吸しない。それをいいことに、めちゃくちゃ早口の、どこで息継ぎするのかもわからない音楽がバズり出したのはもう15年以上前のことだ。人が歌えないことを前提に作られた歌。斬新であった。それを聞いた人間は、無茶をしてでも歌いたくなり、挑戦した。出せないと思われた高音や口が回るはずのなかった早口を多くの人がクリアしていった。人類の歌唱力はボーカロイドが世に出回ったことで劇的に進化した。ボーカロイドは人類の可能性を広げたのだ。

無茶なことにチャレンジし、さらに編集を駆使することで、人は呼吸しない音楽を覚えた。呼吸のない音楽は、呼吸のある音楽が当たり前であった時代を生きた者からしてみれば、とにかく非常識で面白かったのだ。
ところが今、そういうものばかりを聴いた世代が台頭してくる時代になった。ボカロネイティブ世代というらしい。彼らの中には呼吸のない音楽が当たり前に存在している。私のような古い人間とはきっと感覚が違うのだ。

どうしても最近、苦手な音楽がある。どんなに器用に歌声を乗せていようが、どうしても気持ち悪く感じてしまう。息づかいが不自然なのだ。歌というものは「このフレーズをこうやって歌ったら、次はこう歌うのが自然な流れ」というのがある程度あるはずなのだが、おそらく収録時に細かく編集されており、本来あるはずの流れが完全に無視されている。つまり呼吸がないのだ。しかし、ボカロばかり聴いている人には何の違和感もないらしい。呼吸のない音楽に慣れているのだ。もう今の時代、たぶんそれはもう「普通」で「当たり前」なのだろう。

私は歌うときの呼吸はとても大事だと考えている。もちろん『初音ミクの消失』みたいな、呼吸がないことを前提に作られた楽曲ならそういうものとして受け入れることができる。問題は、そうでないものだ。楽曲そのものには呼吸があるのに、ボーカルが息をしていない。そんなことある?と思うけど、そんなことあるのだ。逆もあって、楽曲には呼吸がないけど、ボーカルが器用に呼吸している。これもかなり違和感があるが、前者ほどではない。いずれも私にとってはかなり不気味な音楽である。人の顔面から人中だけを消すとかなり違和感があるというが、おそらくそのような感覚に近い。

何かを嫌いだと思うことが嫌で、なるべくそう感じるものには近づかないようにしているのだけれど、職場で有線が流れるので最近の流行曲を飽きるまで聴かされる日々を送っている。だから、嫌いだなぁと感じる音楽も回避することができない。仕方がないので、なぜ自分がそう感じるのかを自分なりに考えたら、こんな話になった。共感してくれる人はいるだろうか?

それにしても過激なタイトルにしてしまったな。生きているものが呼吸しているなら、呼吸しないボーカロイドは死んでいるんじゃないかっていうシンプルでありがちな言葉遊びです。深い意味はない。

文章を書くことに慣れたいので、このnoteは気が向いたら更新します。

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