お笑いのイジリは既に時代遅れになっていた(M-1感想)

今年のM-1、面白かったですね。
どうしても昔のアンタッチャブル、チュートリアル、オードリーのM-1と比較するとここ数年のM-1はどこもM-1レベルではない、と思ってしまうのですがミルクボーイはオールドスタイルのしゃべくり漫才を新しいスタイルで出し、会場の空気を持っていったのも納得の面白さでした。それこそチュートリアルの「チリンチリン」のような思い出としてコーンフレークという単語を残せたのは、王者になれる力の証左でしょうか。

その一方でお笑いと容姿イジりについてこんな言及も。

この容姿をイジる形の笑いの難しさーーというより時代とのズレは昨年のM-1でも表出していました。

ギャロップのハゲを自虐する漫才。上沼さんの講評を聞く前から、会場がハゲネタの度に冷めていったのは視聴者でも伝わっていました。

笑いと時代が密接に関係することは言うまでもありません。皆が共有する感覚は時と共に移りゆくものであり、笑うことが感覚をベースとしたコントロールできない行為である以上、時代にそぐわない引っ掛かりが頭をよぎってしまうだけでも笑いに適したものではなくなってしまう。笑えなくなってしまうのです。
例えば、年越し定番の笑ってはいけないシリーズ。出演者たちを案内する役はダウンタウンの元マネージャーの藤原さんが担当しますが、僕たちが彼を最後に見たのはあの吉本の記者会見でした。果たして藤原さんがコミカルな姿で画面に映った時、僕らは笑えるのでしょうか。

ただ、この流れで外見イジりをベースに笑いを作ってきた芸人さん達を責めるのは筋違いでしょう。彼らはそれを面白いとする・それが面白かった時代を見てお笑い芸人を目指して自分の笑いの形を模索し作り上げてきた。その人達がメディアに出始めた時に時代とラグが出てしまうのは仕方のないことかもしれません。責められるべきがいるとしたら、そのようなイジりを笑いのメインジャンルとして規定し、それが笑うべきものであると定めた上の世代の人たちでしょう。そのようなものの一つとして「喋りをかんだ人を笑う」ことがあると思います。言い間違えた、うまく喋れなかったことは元来笑うものではなかったはず。それを「いや噛んでるし」とツッコむことで笑うものにした。これらも全て1つの流れではあるので良い悪いではないと思いますが、そのような笑いの形を苦手としてきた人たちは一定層いたのではないかと思うのです。

このように、お笑いの流れが変わる節目が来ているのは確かでしょう。ただぺこぱがウケたのは世相を反映して相手を肯定するツッコミだったからではありません。そんな単純なものではない。むしろあそこまでキャラ付けした状態で漫才をやり通していることの方が特異なものであり、それをベースに構成とツッコミを成り立たせていることが評価され笑いにも結びついていると推察します。

一方、イジリを根底においたアインシュタインも現状厳しさを感じますが、

稲田さんは次のステージの先駆者ともなり得、今後の戦い方が楽しみでもあります。

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