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セミの ぬけがら

ふと気づくと、もうシャワーのようなセミの大合唱はいつしか消えて、ただ脱け殻だけが置き土産のように、頭の上の木の幹に、まだしがみついていた。

ツイッターを始めて3ヶ月。私が面白いなあと思ったのは、文字の流れる小川のような、動脈のような言葉の中で、誰かの言葉にヒントを得た誰かが、またその言葉や動画を矢につがえて飛ばし、飛ばした本人が忘れた頃に、ブーメランのように戻ってきたりすることだ。

そして一つの言葉の束の中に、錨を下ろすようにスレッドがたれ下がり、そこに集う言葉や気持ちが、深い井戸のように落ちていくところもそうだ。

いつしか私は、遠くまで届く言葉を探すようになった。そして深くゆっくりと心の底まで染み通っていく言葉も探している。

よほど心しないと、自分でも気づかぬうちに、自分の言葉が刃物のように、暗闇から、相手の弱った心を傷つけることもあるだろう。砂糖にたかる蟻となって、通りすがりの有象無象の一人として、見知らぬ人の靴の上を踏んだりしているかもしれない。

丁寧過ぎても伝わらない。簡潔すぎても、響かない。          あることを強調したくて、使い慣れない男言葉や命令口調に殺伐とした空気をまとわせて言葉を投げ飛ばしても、案外自分の思いは伝わらないと思う。

どうしてそうなっているのかは、よくわからないのだけれど、コロナの医療従事者からの情報を、こまめに記録している人がいて、その数字が流れてきた。それを見、行間を想像すると、とても平常心ではいられない。苦労して発信しているその人に、つい言葉をかけたくなる。

私のツイッターを読んでくれた人のプロフィールを覗くと、特徴がないように普通を装っていても、ツイートから何かの専門家ではないか、と感じる人もいる。にじみ出る教養や寛容な人柄を、言葉の余白に感じたりもする。

時々感動的な言葉に出会う。ある孤独な人が夜中に「辛い想い」を吐露した後に、同じような苦しみを経験している人たちが、ふわっと羽毛布団をかけるように、言葉を置いて行ったのを、朝になって見た当人のツイートがある時流れてきた。

顔も知らない。どこの誰ともわからない。本当の職業も背景も知らないのに、たぶんリアルでは出会えない交流が、夜空の中で行われていたりする。そこがとても魅力的だと思う。

もう若くもないし、年なりの魅力にも乏しい私のような身の人間が、もしもどこかの、何かの会で発言しても、誰も耳を貸さないだろうと思うけれど、ツイッターの世界では、本の著者や専門家に、自分の言葉が「いいね」されることがある。

そんな時、まぐれでも相手に言葉が届いたことが、自分を確かなものに感じさせる。自分の感じ方が、それで良かったのだと思えてくる。

ツイッターの主に、賛同や意見を言う時、質問したい時、ただ独り言を残す時、いつもどんな言葉の選び方が、その場合適切かを考える。私にはとてもむずかしいことだけれど。相手との年代的、脳細胞的距離や、影響力、性格を想像して、受け止めてくれる言葉を探している。まるで、夜景に浮かぶホテルの窓の灯を見上げるように、見えない人を感じながら。




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