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おおっぴらに、人の家の中を見る時代

今まで何か習おうと思ったら、専門の学校とか資格を持ってる人の教室に通うのが普通だった。料理とか英語とか生花とか。それがネットの時代になって、気軽にただで、自分の好きな時間に何度でも、学べるようになった。

私は洋裁や手芸をしている人の動画を見ることが多いけれど、何が良かったかと言って、その手付きや手の向き、速度、ちょっとしたしくじりなどが、リアルに見られることがありがたい。

「ああ、ここで上手くいかないのは、私だけじゃなかったんだ、そこ私もむずかしいです」と勝手に共感する。そしてその難所をいかに克服していくかについて、丁寧に説明してくれる人も他にいたりする。例えばコンシールファスナーという、女性のワンピースの背中の真ん中に一本入れるファスナーの縫い方などを。

上手な人は、いつもそうだけど、簡単にきれいにさっと仕上げてしまうので、詳しくない人はそこに特別な技術が必要なことすらわからない。でもやってみてグズグズになった人は、そこだけ真剣に何度も見返す。

そういう細かい技術は、本を読んでもなかなかわからない。だから先生の近くまで行って、手元を見る機会を持たないと腑に落ちない。本来そのためには時間もお金もかかるものだ。華道、茶道の世界もそうかもしれない。先生が手取り足取り教えてくれなくても、自分の課題をどうにかして乗り越えようとしている人は、そのちょっとした気付きで、階段を昇ることができる。

you tubeが始まったころの動画を見ると、まるで教育テレビのように構成がしっかりしていて、話す人も先生風な人が多かったように思う。言葉遣いも丁寧で、その道で地位を築いて来た方だな、と思わせる雰囲気があった。

そういう王道の動画もあれば、全く違うものもある。最近は外国の動画もおすすめに上がってくるようになった。その世界中の手作り好きな人々が作っている様子は、意外性があって楽しい。

机がなくて、ベッドの下で布を切っている人、布に印を付けるのに鮮やかな太いチョークのようなもので付ける人、いかにも切れなさそうな大きなハサミで、布も糸もギコギコ切る人、シワシワの布をアイロンもかけずに、どんどん縫う人。

それを見ると、どんなところでも作りたい人は作るのだ、あれがない、これが揃わないなどと、文句ばかり垂れていた自分を叱りたくなる。ジョキジョキ切って、ジャカジャカ縫って、できたよ!と嬉しそうな得意そうな遠くの仲間にエールを贈りたくなる。

私も何回か経験したZOOMでは、家の中が丸見えになる。背景を仕込む人もいるけれど、本人の画像の境界が不安定になって、見ている方はあまり落ち着かない。

私が最近見ている動画は対談やライブで、あるテーマで話しているものが多い。時々人の後ろに本棚があって、それが圧倒的な存在感で、その人を証明しているように見える時がある。他人の家の書斎などには、なかなか入れてもらえない。その禁断の個室に突然入ったような気がして、読書から得た知識や興味の奥行き、考え方、話し方など、「教養」の蓄積の大切さを、ライブの話の成り行きとは別のところで、感じることがある。

振り返って自分の背景はなんだろう、と考える。台所の机の上に置いたパソコンのカメラからは、食器棚しか映らない。しかしその前に映る自分は、今までの何を背景に語れるのだろう。

ZOOMの時差のあるやり取りは、思ったよりも難しくて、人と人がリアルに会うことの大切さを改めて教えてくれたように思う。自分が今話してもいいという阿吽の呼吸、聞いてもらっていると実感できる交流、司会者の意図など、会えたら簡単な確認事項が結構むずかしい。

「未来の電話」として20世紀では夢見られながら、技術が可能にすると、「お化粧してないなら、突然かかってきても困る」とかいう理由で、あまり使われなかった「テレビ電話」。それがこのような事態になって「マスクしてるからまあいいか」とハードルが下がったのか、仕事で仕方なく、なのか。

実際に会わなくても、知らない人の家の奥深くまで見せてもらえる一方で、目の前に人がいないと絶対に伝わらないこともある。可視化できる情報と可視化できないもの。例えば、目には見えない波動のようなもの、というか呼吸のようなもの、体から発せられる圧のような情熱のようなもの。(ネコ動画が人気なのは、足りないそれを補っているのかも)

それこそが生き物の証だし、一番大切なものかもしれない。数字や文字や図形よりもきっと。だから感覚を開きたいと思う。自分の評価や成績や通帳の残高ではなく、自分の生き物としての面白さを、もう少し開くために。


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