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ヘロデ大王の幼児大量虐殺をクリスチャンはどう読んでいるか【クリスチャンは聖書をこう読んでいる #6】テキスト版

布忠がお届けする、「でもクリ×聖書」第6回です。
「聖書にはこんなことが書いてあって、それをクリスチャンはこういうふうに読んでるんだよ」ということを、聖書にあまりなじみがない方むけに、語っています。

気楽にしゃべってるので、気楽に聴いてください。
動画版もどうぞ↓

今回は、マタイによる福音書2章13節から。ヘロデ大王による幼児虐殺事件をクリスチャンはどう読んでいるか、です。
前回は、「新しい王様」メシアを狙うヘロデ大王を、「東方の三賢者」がお告げを受けて出し抜いたところまで読んだわけですが。それで黙ってるヘロデじゃなかった。

イエス・キリストの系図の最初の方で、アブラハムの孫のヤコブというのが出てきたんですが、ヤコブの子孫がイスラエル人、ヤコブの兄エサウの子孫がイドマヤ人です。で、ヘロデはイドマヤ人。
それがなぜローマ帝国ユダヤ属州の王になってるかというと。

ヘロデ一族

ユダヤは、セレウコス朝シリアに征服されていた時代に、マカベア戦争と呼ばれる独立戦争に勝利して、ハスモン朝として(短い間だけど)独立しました。
で、ウィキペディアで「ヘロデ大王」のところに詳しく書かれてるんですが、ヘロデはこのハスモン朝ユダヤの武将だったのが、ハスモン朝の内乱を生き延び、ローマを後ろ盾につけ、そしてローマの元老院から「ユダヤ属州の王」に認められたという。

最初はヘロデの父アンティパトロスが、ローマ軍を支援したことでユリウス・カエサルの信用を得たんです。
ところがこのカエサルが元老院派に暗殺されるわけですね。「ブルータスよ、お前もか」事件です。それでアンティパトロスも後ろ盾を失ったかというと、ちゃっかりカッシウスの味方に収まることに成功。
アンティパトロスは毒殺されてしまうのだけど、そうすると息子のヘロデが、カッシウスの後ろ盾と、ハスモン朝のマリアムネを妻にしたことによって、権力基盤を固めます。
ところが後ろ盾のカッシウスが、前42年に「フィリッピの戦い」でアントニウスとオクタウィアヌスの連合に負けてしまう。しかもユダヤ人たちがアントニウスに「ヘロデは僭主だ」と訴えた。だけどヘロデはうまいこと立ちまわってアントニウスの友情を得て、訴えたユダヤ人たちがアントニウスに処刑されるという結果に。
さらにハスモン朝最後の王アンティゴノスがパルティア王国と組んで再起をはかってくると、ヘロデはローマに亡命し、アントニウスの支援とオクタウィアヌスの承認もあってローマ元老院から「ヘロデがユダヤ王」と公認。

これでヘロデと彼の権力は安泰かと思ったら、エジプトのクレオパトラも巻き込んで風雲急を告げるわ、それを乗り切っと思ったらアントニウスとオクタウィアヌスが決裂するわ。
そして、ヘロデが公然とアントニウスを支援していたら、アントニウスがアクティウムの海戦(前31年)でオクタウィアヌス側に大敗してしまう。
するとヘロデ、なんと正面からオクタウィアヌスに友好を申し入れるんですよ。しかもオクタウィアヌスがこれを受け入れる。

という具合に、余人なら何度失脚したかわからない綱渡りを、ヘロデ(と父アンティパトロス)はチート級の剛腕で渡り切ったわけです。

三国志演義でたとえるなら、
呂布のように戦い、
劉備のように生き残り、
曹操のように出世し、
諸葛孔明のように先を見通し、
そしてなんといっても、董卓のように悪逆非道。ひどい悪役。
こんなキャラの生涯をマンガにしたら、かなり面白いと思うんだけど。

ベツレヘム大虐殺

ヘロデ大王が悪逆非道というのはたとえば、妻マリアムネやその母アレクサンドラ、そしてマリアムネが生んだ息子たちなど、ハスモン朝の血を引く者を抹殺していった残虐さですね。
そんなヘロデが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」なんて聞いて黙ってるわけがない。ところが前回紹介したように「東の博士たち」に出し抜かれてしまった。そこで、

ヘロデは、博士たちにあざむかれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、…ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子とみな殺させた。(2章16節)

ベツレヘムは、神ヤハウェによって、かのダビデ王位に定められた由緒ある町。それで聖書でも「ダビデの町」と呼ばれていますが、それほど大きな町ではなかったようです。
ヘロデが「人を遣わして」というのも、軍を送るほどの話ではなかったということだと思うんですね。殺された幼子は20から30人くらいだろうと言われていて、ヘロデの悪行の中ではむしろ犠牲者が小規模なくらいです。

とはいえ、「新しい王、メシアであるイエス」の降誕がなければ殺されることはなかったはずの幼子たち。この記事をどう受け取るかは、クリスチャンにとって難しいところです。
マンガ「聖☆おにいさん」(せいんと・おにいさん)(中村光 講談社モーニングKC)でも、イエスが「私のせいで関係のない子供たちが…生まれてきてごめんなさい!!」という場面があるのだけど。

で、布忠は聖書をどう読んでいるかを語る企画なわけですが。
その前に、この考え方についてぼくは、クリスチャンからも賛成されたことはない、ということは先に言っておきます。

まず、なぜぼくたちはこの事件を「残酷だ」と思うのかなと。
それは「人は死んだらおしまい」というのが大きいからだと思うんですよ。死んだあとのことがわからないから、人の幸せは「生きている時間の中」だけにしかないとしか考えられない。だから命を理不尽に奪われること、生きている間に手にしたかもしれない幸せを理不尽に奪われることが、残酷だと思う。

でも聖書は明確に「違う」って提示してるんですね。「死んだらおしまい、ではない」って。

人が死んだあとのことについて、聖書にはそんなに手がかりがないのだけど、それでもはっきりしていることはあります。
「死んだ人は『よみ』(陰府、黄泉)というところに行く」
「世の終わり、終末のときに、死者は『よみ』から出てきて『最後の審判』を受け、天国とも呼ばれる神の国に行くか、地獄とも呼ばれる永遠の炎に投げ込まれるかが決定される」
この二つははっきり示されている。

ぼくたちの感覚では、人は「死」で終わってしまうけれど、ヤハウェはそうではないことを知っている。むしろ「死」のあとのほうが肝心だって聖書は示している。そうすると「死」は残酷でも何でもない通過点。
この違いが大きいんだろうなと。

あと、ヘロデがおさなごたちを殺したのは、ヘロデのせい、人間のせいです。神のせいではない。イエスの降誕がきっかけではあっても。
たとえば戦争や、日常の事件や事故で「何の罪もない命が」「神がいるというならなぜこんなことが」ってぼくたちは言うけれど、ヤハウェに限らず「神」と呼ばれてるすべての存在が「いやいや、それは神のせいじゃなくて、人間のせいだから」って言うんじゃないかな。

聖書では、もっとひどい記述もある。ヤハウェに反逆した者たちをヤハウェが殺すのは、それは本人は自分でやったことの結果でしかないけど、反逆者の子供たちまでヤハウェは殺してしまう。
今では考えられないくらい「子供は親の所有物」という感覚があった時代とはいえ、これはやはりクリスチャンでも読むのがつらいと思うのだけど。
でも「人の死」のあとについても知ってるヤハウェにとっては、この世での「人の死」というのは、人が思ってしまうほどは全然重くないのだと思うんです。人が育成ゲームかなんかで「こっちの町で暮らしてたキャラを、あっちの町に移動させる」くらいなんじゃないかな、この世で生きてた人間を「よみ」に移すのは。

よく「神様は、いい人から先に天国に連れて行ってしまうんだ」っていうじゃないですか。
これは「キリスト教の神様」「キリスト教の天国」というイメージでは言ってないかもしれないけど、ヤハウェがこの世から誰かを連れて行くという点については、当たらずとも遠からずだとおもんです。

聖書の神はドライではない

ただヤハウェは、人にとって「死」がどれほどおおごとか、というのもちゃんとわかってくれてます。
聖書にはイエスが涙を流した場面が2回だけあるけれど、そのうち1回は大切な身内を失った人たちのための涙です(ヨハネ11章35節)。
「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」(へブル人への手紙4章15節)とも書いてある。

「よみ」について多少の手がかりは聖書にありますが、今回はこの話を広げるのはこれくらいにします。ヘロデに殺されたおさなごたちは、よみの「アブラハムのふところ」と呼ばれるところで、平安に生きているのだと思います。
それよりも、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男児が皆殺しにされて、じゃあイエスはどうなったのか、なんですが。

エジプトくだり

実はその前にヨセフがお告げを受けて、エジプトに脱出していました。
ヨセフって(マリア様と比べると)かなり影が薄い印象もあるのだけど、何度もお告げを受けてイエスを守った預言者でもあるんですね。

現代でエジプトというとイスラム教の印象が強いと思いますが、実は「コプト教」または「コプト正教会」と呼ばれる古い教会があります。この教会は、聖マルコ(「マルコによる福音書」の記者)が1世紀にアレクサンドリアに建てた教会から続いているという伝承があるくらい、歴史のある古い教会です。
このコプト教会では、「ヘロデ大王の魔の手からのがれてきたイエスがエジプトで保護された」ということを今も記念しているのだそうです。

今回はこのあたりで。
「でもクリ×聖書」はあくまで、布忠という一人のキリスト信者が聖書をこう読んでいるというものです。
今回は特に!キリスト教を代表するものではないし、これが正統的というつもりもないことをご理解ください。

では。
あなたと、あなたの大切な人たちに、神様のご加護がありますように。

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