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格差拡大?「持ってる」になろう!【ルカ8:16-18】【やさしい聖書のお話】

2023年2月12日の聖書のお話です。

灯台

「灯台もと暗し」ということわざを知ってますか?
灯台は暗い夜を明るく照らすけど、灯台の下のところは暗いということから、「すぐそばのことが意外とわからないもの」という意味で使われます。たとえば、メガネをしてるのにメガネを探してる、なんていうときですね。

灯台もと暗し

このことわざの「灯台」というのは、実は海を照らす灯台ではありません。
まだ電気がない時代に、家の中でともしびを台に乗せていた灯台(燈台)のことです。

「灯台もと暗し」の灯台はこういうやつ

そしてイエス様は、こういうたとえで教えました。

「ともし火をともして、それを器でおおい隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」

ルカ8:16-18(新共同訳)

火をともしてないロウソクなら、隠しておくことができる。
でも火をともしてしまったら、その光は誰からも見られてしまう。隠しておくことはできない。

「そりゃそうだ」だよねw
イエス様はこのたとえで、何を教えようとしているのだろう。

「神の国をたとえたら」シリーズ

ルカ福音書ではこのたとえは、「種まきのたとえ」に続いて記録されています。神の言葉が心にまかれるけれど、それをすぐ無くしたり無駄にしたりする人もいるし、豊かに実を結ぶ人もいるというたとえです。
マルコによる福音書でも同じ順番だけど、マルコではイエス様はさらに「神の国を何にたとえたら、あなたたちにわかるかなあ」と言っている(マルコ4:30)。
福音書の記者たちは「イエス先生の教えのうち、神の国のたとえについてまとめて記そう」と考えたのだろう。

そう考えると、今日のたとえ話では、ともし火というのは「神の言葉」のことなのだろう。

神の言葉は隠すことができない

神の言葉は、点火してるともし火のように、隠そうとしてもあらわれてしまうし、秘密にしようとしても人に知られてしまう。
実際、神の言葉である聖書は、何千年にもわたって途絶えることなく伝えられてきました。マタイやルカやパウロなどが書いたものは残っていないけれど、それを書き写した写本はとても古いものがたくさん残っている。

歴史上の史料とされている古代文書は、最初に書かれたものからずっとあとの時代の写本がわずかに残っているだけなんだ。たとえばカエサルの「ガリア戦記」は、最初に書かれてから900年もあとに書き写された写本が、しかもたった20ほどしか残っていない。それでも「ガリア戦記」はおおむね信用できる内容とされている。
一方、新約聖書は、書かれてから30~310年後の写本が何千という単位で残っているんだ。

ニッキー・ガンベル「アルファコース・マニュアル」より

世界でもっとも古い長編小説といわれる日本の「源氏物語」も、書かれてから約200年後の藤原定家の頃には、「さまざまに異なった本文があって、その中のどれが正しいかわからない」という状態になってしまっていた。それで、本文を整理したもの(つまり書き換えたもの)が現代に伝わってる。
でも聖書は正確に今に伝えられているんだ。
(聖書も写本によって異なっている箇所はあります。でもとにかくたくさんの写本があるので、写本どうしの違いを比べて研究することで「もともとはどうだったのか」がわかるのです。その結果、それらの写本は驚くほど正確に書き写されてきたことがわかっています)

共産主義の人たちは宗教を否定する(日本共産党は「信教の自由を保障する」と言ってるけど、共産主義という考えかた自体が「宗教は支配の邪魔」なので、日本共産党は日本人から信用されたくてごまかしているだけ)
それで共産主義の国ではキリスト教も滅ぼそうとした。でも隠そうとしても現れてしまう神の言葉は、滅ぼそうとしても滅びなかった。ソ連という共産主義の国があって、キリスト教(ロシア正教)の教会を攻撃し、学校では「イエスは架空の人物」「キリスト教の神はむなしい。共産党書記長を頼れ」と教えていた。でもキリスト教を国内から無くすより先にソ連という国が無くなってしまったんだ。

格差を拡大する「マタイ効果」

イエス様はさらに、「だから」といってこう続けてる。
「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」

神の言葉を持っている人はもっともっと持つようになるし、持っていない人は持っていると思うものまでなくしてしまう。
道端にまかれた種が鳥に食べられてしまうように、神の言葉が心に入ったとたんに無くす人。
岩の上にまかれた種が、芽を出しても枯れてしまうように、神の言葉を喜んでも何かあると手放してしまう人。
いばらに邪魔されて成長できない種のように、神の言葉よりほかのことに心を奪われて実を結べない人。
「持った」と思ったけれど持ち続けることができなくて、持っていると思うものもなくしてしまうというのは、こういう人たちのことなんだ。

でも、良い畑にまかれた種が豊かに実を結ぶように、神の言葉を受けとって豊かな人生を生きる人もいる。そういう人はさらに聖書を読んで、もっともっと豊かに神の言葉で生かされ、そして神の国に入る。持っているのにさらに与えられるというのはこういう人たちのことだ。

「持っていない人は増えることはなくて、持っている人に追いつけることもなくて、格差が広がる一方」という不公平さを「マタイ効果Matthew effect」とも言います。このたとえが書かれているマタイ福音書に由来する言葉です。
お金持ちはどんどんお金持ちに、貧しい人はどんどん貧しくという経済格差。
勉強できる子が大人になるとその子供も勉強ができる子に、勉強できない子が大人になるとその子供も勉強できない子にという教育格差。
学者がすばらしい研究をして認められると、支援されてさらに素晴らしい研究ができるようになる、とか。
だらしない生活に慣れてしまうと、どんどんだらしなくなる。ちゃんとしてる人はますますちゃんとする。とか。

この世にはいろいろなところにマタイ効果がある。人間の世の中は不公平なんだ。

福沢諭吉『学問ノススメ』

その不公平をなんとかしようとがんばった一人が、福沢諭吉だった。

福沢諭吉。幕末から明治期の思想家、教育家。

彼は著書『学問ノススメ』の最初にこう書いてる。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
…されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。
その次第はなはだ明らかなり。…賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

福沢諭吉『学問ノススメ』

ちょっと難しいけど要するに、
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、ていうよね。
でも実際には世の中そんなことなくて格差だらけだよね。
なぜなのかは、はっきりしてる。『学ぶか、学ばないか』の違いなんだ」
という意味だ。
それで福沢諭吉は「学問」を「ススメ」るわけ。

「福沢諭吉が『天は人の上に人を作らず』と書いてる」なんていう人がいるけど、それ『学問ノススメ』を1ページも読んでないエアプだからw

神の言葉を「持ってる」になろう

イエス様のたとえ話も同じ。
「道端に種がまかれたような心」の人や、「いばらの中にまかれたような心」の人がいる。でも誰がどのような心なのかは、神様が決めるんじゃなくてぼくたちが決めるんだ。
(聖書には、誰が救われるかは神があらかじめ定めているという記述もありますが(ローマ8:29-30など)、一方で「誰でも」信じるなら救われることが約束されています(マタイ7:8、10:32、12:50など)。「救いは神から来る」ということと、「人は自由な意思を神から与えられている」ということ、どちらも真実なのです)

学ぶか学ばないかを決めるのは、ぼくたち。
神の言葉を受け取って豊かな実を結ぶか、神の言葉を無視したり簡単に手放すかを決めるのも、ぼくたち。
イエス様は「(神の言葉を)持っている者にはさらに与えられる」と約束して、持っていない者はどうなるかも教えているいるだけ。
「持ってる」になるか「持ってない」になるかは、自分で決めることができる。

ただ、神様はすべての人を愛して、すべての人が「持っている者」になってほしいと思いながら待っているということは知っておいてください。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年2月12日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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