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ピラト裁判。イエスを十字架刑にした黒幕はアナタだ!【マルコによる福音書15:1-15】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は教会学校動画の原稿を再構成したものです。キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところがあるかと思います。動画版は↓のリンクからどうぞ〕

自分とまったく違う人たちを裁くことはできるのだろうか

聖書の話に入る前にまた余計なことを語るけれど。
ぼくは歴史が大好きです。ただ、歴史上の、つまり昔のできごとについて読んだり聞いたりするときに、受け取り方が難しいなと思うことがあります。現代人の感覚、今のぼくの常識や正義で、昔の時代のできごとを見ようとしてしまうことがあるのが難しいんです。
自分とは違う国、違う歴史や文化、違う状況、そして違う時代の、「常識」や「当たり前」そして「正しいとは何か」が全然違う人たちを、ぼくが「間違っている」「悪だ」と裁くことはできるのだろうか。

日本でも少し前までは、一人の夫が、一人の妻のほかに側室とか妾(めかけ)と呼ばれる女性を持つというのは、そう珍しいことではありませんでした。もっとさかのぼれば、家を継ぐ男児を得るために複数の女性を迎えることは一族の統領としての義務といえるくらいだった。
そうしたことを、現代の一夫一婦制が当たり前という感覚で、昔は間違っていたとか悪だったとか女性蔑視だったと裁くことはできるのだろうか。

時代が違うという話だけじゃなくてね。
今、日本では「戦争はすべて悪。正しい戦争なんか無い」という考えの人が多いです。そういう人たちの中には、今ロシアの軍隊がウクライナに攻め込んでいる戦争についても「戦争は両方とも悪い。戦争を始めたロシアも悪いが、戦争になる前にロシアのいうとおりにしなかったウクライナも悪い」とテレビなどで発言する人もいる。
でも、平和に暮らしていたところに外国の軍隊が攻め込んできたので仕方なく戦ってるウクライナ人に、今のところ戦争の心配をしなくていい日本に生きるぼくたちの基準で「あなたたちも悪」なんて決めることはできるんだろうか。

さらに。ぼくたち日本バプテスト連盟の教会は、極限状況での愛する者を守るための暴力も主に裁かれる、という意見を公式に発表しています。

…極限状況は暴力とその正当化へと私たちを誘惑する。しかしたとえそれが愛する者を守るための暴力であっても、その暴力行為によって私たちは主イエスの十字架の下で審かれる。…

日本バプテスト連盟『平和に関する信仰的宣言』より

じゃあ、家族など「愛する者」を、ロシア軍から「守るため」に、戦争という暴力行為を選ぶしかなかったウクライナ人たちは「主イエスの十字架の下で審かれる」のだろうか。
ウクライナのクリスチャンたち(人口の90%以上がキリスト教)は、戦争という「極限状況」で暴力を「正当化」しているのだろうか。暴力を正当化する「誘惑」に負けたのだろうか。
それは違うというなら、それは「私たちの主イエス」は、「ウクライナ人たちの主イエス」とは別ということ?

「主イエスの十字架の下の審き」というのは、ブレないはず。でも「極限状況でも何でもない、平和な現代日本」にいるぼくたちを基準に主の審きについて宣言したために、「理不尽にも極限状況に叩き落された人たち」を裁くことになってしまっている。

時代を超えて変わらない善悪というものは、ある。聖書こそ、そうであるはず。でも「聖書は正しい」というのが、「人が聖書を使うときは正しい」ということにはならないんだ。

ということをふまえて(いや、まだ前置きだったのか!)
「総督ピラトは、イエスが無罪だとわかっていたのに、裁判を曲げて十字架刑にした」という言い方もあるけれど、そういう見方は正しいのだろうかということも考えてみよう。

総督ピラト

ローマでは、属州の総督になればとても儲かる。それで、元老院(ローマの国会みたいなもの)が属州総督を決めるときに、「私をあの属州の総督にしてくれ」と議員たちにワイロの大金を渡して頼むこともあった。そのために大借金してって、総督になって税金をたくさん集めれば、借金をすぐに返してさらに大儲けできるから。
ここで「総督だからといってひどい税金をとるのは悪」「そもそも総督になるためにワイロを使うのは悪」というのも"現代人の正義"というものかもしれない。

総督は、その政治の責任者で、裁判や警察の責任者で、戦争になれば軍隊を指揮する責任者。で、イエス様の時代、ユダヤ属州の総督はポンティウス・ピラートゥスという人でした。日本の教会ではポンテオ・ピラトと呼ばれます。

総督ピラト
https://www.thefamouspeople.com/profiles/pontius-pilate-5073.php

ピラトも総督としていろいろやらかしたらしい。ユダヤ属州のサマリア人たちが、ローマに「総督ピラトをなんとかしろ」と訴えたりもしている。
でも面白い記録もある。

ユダヤの総督ピラトスは、カイサレイアから軍隊を率いてエルサレムにある冬季の陣営に移動した。しかしこのとき、彼は、ユダヤ人の掟に挑戦しようと一計を案じた。すなわち彼は、軍旗につけられているカイサルの胸像--わたしたち(ユダヤ人)の律法は偶像をつくることを禁じている--を市中に持ち込んだのである。
…夜が明けて(ユダヤの)人びとがそれを発見すると、彼らは大挙してカイサレイアへくりだし、像を撤去してくれるように、連日ピラトスに懇願した。
…ピラトスは、あらかじめ定めておいた合図を送ってただちに兵士たちに人びとを包囲させ、もしこのような騒ぎを中止して自分たちの家へ引きあげなければ、いますぐにも命はなくなるぞ、と脅迫した。しかし、それに対して、彼らは身を投げ首を差し出して、律法の賢明な教えをあえて犯すよりは喜んで死を迎えよう、と宣言したのである。人びとの律法遵守にたいする献身のほどに驚きうたれたピラトスは、即座に像をエルサレムから撤去し、それをカイサレイアに戻させた。

フラウィウス・ヨセフス「ユダヤ古代誌」18巻ⅲ

ピラトは、ユダヤ人たちが聖書の律法を命がけで大切にしていることを知ったんだね。
そんなピラトのところに、ユダヤ人たちが、イエスは死刑にされるべき犯罪者だといって訴えたんだ。

ムンカーチ・ミハーイ「ピラトの前に引き出されたイエス」

イエス裁判

ピラトは、イエスには罪がないのにユダヤ人たちがイエスをねたんで訴えたということを知っていたがわかっていた(マタイ27:18)。それで、イエスを無罪にしようとがんばる。
アントニオ・チゼリが描いた「この人を見よ」という作品は、ピラトがエルサレムの人たちに向かって「この人がいったいどんな悪事を働いたというのか」と言っているところだと思う。

アントニオ・チゼリ「この人を見よ」

でも『群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫びたて』た。
そこでピラトは『群衆を満足させるために』イエスを十字架で死刑にしろと兵士たちに命じたんだ。

ピラトは言った。「(イエスが)いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、…イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

マルコによる福音書15:14-15(新共同訳)

 この裁判の結果、教会では今にいたるまで、「主はピラトのもとで苦しみを受け」と言い続けている。

使徒信条の中のピラト

『使徒信条』という、教会が編み出した文章があります。
千葉バプテスト教会ではなじみがない人が多いと思うのでちょっと説明が長くなるのだけど、教会の中で聖書に反することを教えたり信じたりする人たちが出てきたときに、教会は『基本信条』というものをつくった。これは「私たちは何を信じているのか」を言葉にしたもので、これに賛成する人は私たちと同じキリスト教です、これに賛成できない人は同じキリスト教ではないので教会から出て行って好きにしてください、という基準を作ったんだ。
『使徒信条』は基本信条のひとつで、神が三位一体であることや、主イエス・キリストがおとめマリアから降誕したことや十字架で死んで復活したこと、私たちのからだのよみがえり、などなどを信じますと宣言している。
使徒信条はカトリック教会や、カトリックからわかれたプロテスタント教会の多くで「私たちはこれを信じている」を共有するために使われています。

で、イエス様がピラトの裁判を受けた時から考えたら約2000年(使徒信条は、2世紀後半につくられた『ローマ信条』を受け継いでいるから、そこからでも1800年以上)、ピラトは使徒信条の中で「主は…ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と言われ続けてるわけ。 

ただ基本信条というのは「何を信じるか」を言い表すもので、「どう信じるか」までは言ってない。使徒信条でも「主は…十字架につけられ、死にて葬られ」と言うけれど、「それは私の罪のため」ということには触れていない。
「これは事実だと信じます」を共有するのが基本信条
「その事実は私にとってこういう意味です」を言い表すのが信仰告白
という言い方もできると思う。

主イエスが「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」たのは事実だと信じます、ということを共有するのが使徒信条。
で、その事実は自分にとってどういう意味だろうか。

イエスを十字架で死刑にしたのは誰?

何度かふれてきたけれど、反ユダヤ主義やユダヤ人差別は教会の悪しき伝統で、しかも今も続いている。それは「ユダヤ人が救い主を十字架につけたから」という考え方をしているかららしい。
でも、そうじゃないよね。
イエス様が十字架で苦しみを受け、死んで葬られたのは、「ユダヤ人のせい」ではない。
「ピラトのせい」でもない。
「十字架につけろ、と叫び続けたユダヤ民衆のせい」でもない。
「祭司長や律法学者やファリサイ派のせい」でもない。
「イスカリオテのユダが裏切ったせい」でもない。
「弟子たちがイエス様を捨てて逃げたせい」でもない。

「それは私のせいです」「イエス様を十字架につけたのは私です」「救い主を十字架で殺したのは私です」ということを認めるのが、「イエス様は私の救い主」と信じることなんだ。

真実はひとつ

実は、ピラトが「無実だとわかっているイエス様を死刑にした」のは、総督して間違っていたというわけじゃなかったりする。
裁判で正義を行うというのは、総督にとって仕事の一部でしかなかった。
属州の総督の一番大事な仕事は、自分がおさめている属州がローマに反抗しないようにすることなんだ。

といっても、イエス様がローマ人だったら、無実とわかっていて死刑にするなんてできなかったかもしれない。
でもイエス様はローマ人ではなく、ローマに支配されている属州の民。そんなたった一人の裁判のために、ユダヤ人が騒ぎをおこしたり、ローマに反抗したり、ましてそれが独立戦争なんてことになったりしたら、そっちのほうが総督としては間違いなんだ。

「たったひとりの命」と、「もし戦争になったら失われるかもしれない大勢の命」と、どちらが大事なのかなんていうのは、ぼくたちは言えないだろうと思う。
でも当時の、ローマの、属州総督としては、「ローマ人でもない属州民の命ひとつ」よりも、「属州がローマに反抗しない」のほうが大事だった。

ただ。
これはピラトは知らなかっただろうけれど、実は神である主が、大祭司カイアファをとおして「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方がよい」と告げていたんだ。

その年の大祭司であったカイアファが言った。
「…一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。

ヨハネによる福音書11:49-51(新共同訳)

イエス様という一人が十字架で死んだのは、民が死ぬ代わりで、国民全体が滅びないためだった。
イエス様が死んだのは、ぼくたちが滅びないためだった。ぼくたちの代わりだった。ぼくたちのせいだった。
ぼくたちのためならそれくらいしてもいいっていうのが、イエス様の、神様の、ぼくたちへの愛だった。

イエス様が君のためにそこまでしてくれたほど、イエス様は君を愛している。君をとても大事にしている。そのことを忘れないでください。

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