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ぼくたちはなぜ死ぬのか【ローマ6:3-11】【やさしい聖書のお話】

2023年5月14日(日)の教会学校でのお話をもとに。

「死ぬ」がやって来た

神様が世界を創造したとき、神様が自分で作ったものを見て「全部、よい」といったほど、世界はよいものでした。人間も含めてね。

今のこの世界には当たり前にあるもので、でも神様がつくったばかりの時には無かったものが二つあります。
ひとつは「神さまに従わない」です。これを「罪」ともいいます。
もうひとつは「死ぬ」です。

神様が造った世界には「死ぬ」はありませんでした。
でもアダムが神様との約束をやぶった。
神様が造ったこの世界に、「神さまに従わない」ということが入ってきてしまった。つまり「罪」が入ってしまった。
神様はアダムにちゃんと、「神さまに従わない」の結果は「死ぬ」だよ、と言ってあったのに、アダムひとりのせいでこの世界になかった「罪」が入ってきて、罪の結果の「死ぬ」も入ってしまった。

ぼくたちが死ぬのはアダムの子孫だからだ、という考え方もあります。
でも動物はアダムの子孫じゃないのに死ぬよね。
アダムの子孫だから、アダムから何かを受け継いでるから死ぬというより、アダムのせいでこの世界に「死ぬ」が入ってきてしまったから死ぬ、ということじゃないかなと思うんです。

エバのせいではない

ところでパウロって、別の手紙ではこんなこと書いています。

アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。

テモテへの手紙2:14

こういう言葉から教会では
「アダムは蛇にだまされなかったけど、エバは蛇にだまされて罪を犯した」
→「女が悪い」「男は正しくてエラい」
→「男尊女卑は聖書に基づいている!」
という考え方が長く続いてきた歴史があります。

でもローマの信徒への手紙ではパウロははっきりと、エバじゃなくてアダムのせいでこの世界に罪が入ってしまい、罪によって死が入って、死がすべての人を捕まえるんだと書いてるのね

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

ローマの信徒への手紙5:12(新共同訳)

アダムというたった一人の人によって、「罪と死」がこの世界に入ってきたんだ、でもそれと同じようにキリストというたったひとりによって「罪のゆるしと永遠のいのち」がこの世界に入ってきたんだ、ということをパウロは5章までで書いてるんです。
ここではエバは出てこない。女のせいでなんて書いてない。

キリストへとバプテスマされる

そして今日のところ、6章ではこう書いています。

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

ローマの信徒への手紙6:3(新共同訳)

「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた」というのは、もともとの文章では
「キリスト・イエスへとバプテスマされる」という意味です。

バプテスマ式では全身を水に沈めたり、頭から水をそそいだりというやり方がありますが、「バプテスマ」という言葉は「沈める」という意味の言葉から来ています。
「キリスト・イエスへとバプテスマされる」というのは、「水に沈めるかのように、キリスト・イエスに沈められる」ということです。

イエス様が一度死んで葬られたことで、イエス様の中にバプテスマされている、イエス様の中に沈められているぼくたちも、イエス様と一緒に死んだんです。
そしてイエス様が復活したことで、イエス様の中にバプテスマされているぼくたちもイエス様と一緒に復活したんです。
それでパウロは、「イエス様が本当に復活したんだ」ということにとてもこだわっています。

イエス様は実際に生き返った

12弟子たちは死んだイエス様と実際に会って、一緒に食事したりもしています。一方パウロは、イエス様の復活を目撃したわけではないのに、イエス様が死んだのに生き返ったということを繰り返し強調してるんだ。

「イエスが復活したしたというのは、生き返ったという意味ではない。弟子たちの心に生き続けたという意味だ」と教える教会もあるけど、聖書はそんなことは書いてない。
イエス様自身、復活したあと弟子たちにこう言っています。

「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ」

ルカ24:39(聖書協会共同訳)

パウロはまるで、のちの時代の教会に「イエスは復活はしなかった」と言い出す人があらわれるのをわかっていたかのように、キリストは実際に復活したんだということをとても大切にしていた(コリント一15:12~)
でも、もしイエス様は復活しなかったのだとしたら、ただ弟子たちの心に生き続けただけだとしたら、イエス様の中にバプテスマされているぼくたちも復活しないことになる。死んでおしまい。誰かの心に生き続けるだけ。
だけど、そうじゃないんだって、聖書は言ってるんだ。

じゃあなぜぼくたちは死ぬのか

でもちょっと待って。
ぼくたちはイエス様を信じて、罪をゆるされた。イエス様の中へとバプテスマされた。
だから、イエス様が死んだときに一緒に死んで、そしてイエス様が復活したときに一緒に復活した。

じゃあ、復活したイエス様が生きたまま、体があるままで弟子たちが見ている目の前で天に帰っていったように、イエス様を信じたクリスチャンはもう死ぬことはない?
イエス様のように生きたまま、体があるままで天国、神の国に行く?
ちがうよね。
クリスチャンも普通に死ぬよね。

どういうことだろう。
どう考えたらいいのだろう。

これはとても難しいので、ここからは、
のぶおリーダーが、今のところ、たぶん、きっと、こういうことなんだろうな、と受け止めていることです。

命という言葉に、二つの意味があるのだと思う。
「命」が二種類あるんじゃなくて、「命という言葉」にふたつの意味があるんじゃないかなと。

土のちりで出来た、人間のかたちをしたモノ。
それに神様が命の息を吹き込むと「生きるモノ」となった。
これが人間(アダム)の創造です。土のちりで造った体に、神さまが命の息を吹き込んだ。神様が命を与えたということです。

でもこれは、神様からいただいた命が、土でできた体を操縦してるというんじゃないんです。
生きているということは「命」があるということ。そして、神様からいただいた「命」が体に入ったら、体が生きるようになった。
「体が生きているという意味の命」と、それは「神さまからいただいた命」によって生きているということと、二種類の意味が「命」にはあるんじゃないかなって。

で、「神さまからいただいた命」は、体がなくても生きていることができます。
でも体は、「神さまからいただいた命」が離れたらもう生きられない。それが、「体が死んだ」ということ。

イエス様の言葉からも、体が死んだあともまだ生きているなにかがあることがわかる。

「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」

ルカ12:4-5(新共同訳)

この言葉から、「体が死ぬ」ということと、体が死んだあとも生きているなにかが「地獄に投げ込まれる」ということと、二段階の「死ぬ」があることがわかる。

アダムという一人によってこの世界に死が入ってきたというのは、この二種類の死がこの世界に入ってきたということです。

そして世の終わりにイエス様が再び来られたとき、命に係わるふたつのことが起こります。
第一に、体が死んでいる人たちが生き返ること。
そのあと私たちは、神の国に入るか、地獄と呼ばれる第二の死に投げ込まれるか、イエス様によって裁かれます。神の国で永遠の命に生きるか、地獄で永遠の裁きを受けるかが決まるのです。
このことを、伝統的な信仰に立つ教会ではこのように言い表してきました。

主は…死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、
生ける者と死ねる者とをさばきたまわん

使徒信条より

イエス様が再び来た時には、その時点で生きている人も死んでいる人もイエス様によって裁かれ、天国か永遠の炎(地獄)かにわけられます。その時代に生きていた人たちは、第一の意味の死は経験しないことになります。

イエス様を信じても死ぬのは

この世で生きてるうちにイエス様を信じて救われても、「第一の死」は経験します。
この第一の死は、罪を犯したか、罪が赦されてるかとは、関係ない。動物たちが死ぬのと同じで、「アダムによって罪が入って来てしまったこの世界」に生きてる命が避けられないものです(生きてるうちにイエス様が再臨しなければ)。

でもイエス様を信じる者は裁かれないという約束があります。「第二の死」である永遠の炎(地獄)に行くことはなくて、天国と呼ばれる神の国で永遠の平安を生きるのです。

御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

ヨハネによる福音書3:18(新共同訳)

これが、キリストという一人によって「ゆるしと命」がこの世界に入ってきたということなんだと思う。

ぼくたちのこの体は死にます。
でも体が死んだあとも、「神様からいただいた命」は、イエス様に罪をゆるされて、神の国で永遠に主とともに生きます。
もしぼくたちが生きてるうちにイエス様が再び来られたら、ぼくたちは体の死を経験しないことになる。
もしイエス様が再び来るのが、ぼくたちの体が死んだあとになるとしても、イエス様が再び来た時にはぼくたちは第一の死からよみがえって、そしてイエス様を信じる信仰によって神の国で永遠に生きるんです。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年5月14日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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