選手として生きる、という事~池永正明の死を受けて~

【速報】西鉄ライオンズの池永正明さん死去 高卒新人で20勝、プロ5年で103勝

西鉄ライオンズの生き証人がまた一人天国へ旅立っていった。
ご存じ池永正明と言えばエース稲尾和久の跡継ぎを求める時期に入った西鉄ライオンズで65年、下関商業高校からやってきた投手だ。
野球ファンには黒い霧事件に巻き込まれた悲運の投手、という印象も強いだろう。素晴らしき才能が球界を包んだ八百長賭博事件に飲み込まれて行った。わずか5年で103勝。今と勝利の価値観が違うとはいえど球界を代表する投手であったし、怪我がなければ最後の300勝投手の名前は彼に引き継がれたかもしれない。

黒い霧事件の顛末については一々喋る必要もなかろう。
ブラックソックス事件がそうであったように、立ち上がった興業スポーツが最初から綺麗だったわけではない。
八百長によって多くの選手がプロ野球から席を奪われた。プロ野球に蔓延っていた賭博と八百長。それを一掃したかったある意味プロ野球の転換点ともいえる。ここで八百長や賭博、その胴元を一気に排除したからこそプロ野球はクリーンなイメージを作る事に成功し、今日のプロ野球を形作ったとみてもいいだろう。
65年のドラフト投入やこの事件を踏まえると、戦後多くあったプロ野球の隠れた常識、特に金と絡む要素を一掃したかった可能性は非常に高い。プロ野球の新たな青写真を見ていく中で、排除せねばならないものだったのかもしれない。
新たな時代を迎えるために、金のプロ野球、というイメージを排除していくために該当選手が永久追放され、その割を食ったのが池永という投手でもあった。
現在では池永は金を受け取った事実だけがあり、実際に八百長をしていたわけでない事が確定したためプロ野球からの永久追放が解除される。それは喜ばしい事であった。

しかし、最近はこうも思う。
果たしてこの永久追放解除はどういう意味になるのだろうか、と。

確かに池永という投手の権利は回復した。
無実の罪で追放され、記録もなかったものではなかった彼が長い人生を得てプロ野球にいたことを証明された事になる。
ただ、永久追放を解除されたところにおいて彼はもう投手として記録を一つでも増やす事が出来ないのである。

勿論彼の権威が復活した、という事実があっただけでも大きいだろう。
しかし、プロ野球に足を運んだ時点で、野球で金を稼ぎたい、という気持ちと同時に「日本で一番であろうプロ野球で自分がどこまで通用するかみたい」というものがあったのではないだろうか。
その夢は永久追放という形で踏みにじられたと言っても過言ではなく、ある意味贖罪としての解除なのであろうが、果たしてそれにどういう意味があるのか、と考えると寂しくもなる。

新たな時代のプロ野球を作っていく過程で落とされた膿、として切られるにはあまりにも残酷すぎたのではなかろうか、と今になって思うのだ。
あの後激動のパリーグを見ていけばライオンズが福岡に残っていた可能性はあったか、と問われると難しい。結局1980年代にはどこかに身売りしているイメージはある。交通網と野球、という商売スタンスが1970年代から段々と崩壊していき、遂には1988年、阪急と南海が身売りに動いている。あの都市圏に腰を添える阪急と南海が、である。勿論セリーグとパリーグという広報力の問題はあったにせよ、今のパリーグの隆盛を極めたのは球界再編問題以降であり、そこまでに西鉄が球団を持ちえたのか、というのは疑問が残る。
結果として南海ホークスがダイエーに身売りした際、福岡にプロ野球チームは戻ってきているのだが、なんにせよ何らかのプロ野球チームはあった可能性は十分あるにしてもそれがライオンズであった可能性は高いとは言えないだろう。

それでも池永がいればその歴史は随分と異なった可能性があるという事だ。
もしかするとライオンズは埼玉に移転しておらず、現在も企業を変えながら福岡に残っていた可能性もあるし、1988年に身売りにいたり、パリーグそのものが崩壊していた可能性だってありうる。こればかりは「if」の世界だ。
だが、黒い霧事件以降急に集客力を失ったと言われる西鉄ライオンズが撤退をするのは数年は引き延ばせた可能性が十分にあったわけだ。
実際ダイエーになった以降も福岡でのプロ野球熱は落ちていなかった。初期こそ弱かったダイエーホークス90年代後半の強くなった頃には福岡ドームに多くの福岡県民が集うようになり「いざゆけ若貴軍団」は福岡県民の多くが歌える準県歌みたいになった。
なんだかんだ福岡にプロ野球チームは根強く残っていた可能性は十分にある。それがライオンズではなくホークスだったという話で。時代における経営の変化であり方も変わっていただろうが、それでも福岡にプロ野球チームはあったような気がする。

その原動力として池永がいたような気がする。
彼を失う事はそのままチームの失墜につながり、ネーミングライツで何度か冠する名前を変えながらも1978年、遂に経営母体であった福岡野球株式会社の撤退と共に埼玉に移転している。
その歴史の流れも池永がいれば少しは違う結末になったようにも思うのである。

ただそれ以上に、池永の事を考えると、選手としてアスリート人生を全うしたかったのではないか、と思うのだ。
今更権威を回復したところで、彼はもうマウンドに上がる事は出来なかった。それはあまりにも残酷な答えのように思えるのだ。
時代の選んだ事、と言えばそれまでなのだが、それを受け入れるには私は少しためらうところがある。彼の活躍する姿を残しておきたかった。

そんな彼が先日亡くなった。
無残にも時間は過ぎていく。そして望む望まずに関わらず古い時代は終わり、新しい時代は始まっていく。それが良くなるか悪くなるかは分からない。
そんな中、選手として終われなかった彼の生涯を反芻したとき、もっと違った結末はあったのではないか、と思わずにはいられないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?