投手トミー・ジョンを追え ~中~

1,1970年代のTJ手術

トミー・ジョンの腱はかなり深刻なものであったと言われている。
当時のドジャースに在籍していたチームドクター、フランク・ジョーブは投手としての再起よりも一般人としての生活復帰が出来るかどうかに焦点を当てて手術に臨んだ、といわれているのは多くの書籍が書いているだろう。

誰もがここまでで終わる投手であったと思っていた。それは恐らくトミー・ジョンを除いた誰もがであろう。現在でこそTJ手術はそのリハビリ方法も確立されているが、この時期ではなにをすればいいかすら全く出来上がっていない。
事実この後も多くの投手がTJ手術を行う事になるのだが70年代の投手は軒並み失敗している。
1978年にサンディエゴ・パドレスの投手であったブレンド・ストロームが、1979年にフランク・リッチェリが行ったとされているがいずれも失敗に終わっており、ストロームは1981年、リッチェリは1982年までマイナーで投げるも引退している。
日本ではロッテオリオンズの三井雅晴が1979年に行っているが活躍が出来ず1982年に引退。恐らくこれに似た何度か行っているであろうから多くの失敗があった事は想像に難くない。
本格的な成功は1981年のトム・キャンディオッティまで待たなければならず、また彼もナックルボーラーとなっている事から完全に成功者とも言いにくいところが非常に難しいところである。
ある程度確立したと言っていいところはポール・モリタ―やデビッド・ウェルズの成功例が生まれた1980年代である。村田兆治も1983年であるからこの時期には既に療法まで含めて一定の治療が完成されたといってもいい。

そういう意味で考えるとトミー・ジョンという投手の恐ろしさが垣間見える。
彼がTJ手術という一つの分野を開拓したとも言える一方、彼の起こした奇跡がなければ「いたずらに投手の肘にメスを入れる邪悪な行為」と半ば禁忌扱いされていた可能性だって十分あり得たのだ。
彼はこの後164勝(125敗)を挙げる事になる。登板数は実に405回。
キャリア288勝のうち56.9%を、30過ぎて腱をつぶした左腕から奪っていくのである。

この56.9%を現在の世界で投げる投手は感謝せねばならなくなる。

2,復活とサイ・ヤング賞

1976年4月16日、アトランタ、カウンティスタジアム。アトランタ・ブレーブス戦に彼は登板する。
それも先発でだ。おおよそ一年半ぶりの登板となった。
試合は1-3で敗北。五回ウラにダリル・エバンスにスリーランホームランを打たれるものの5イニング登板。敗戦投手となったものの先発としてやれることをアピールした。
10勝10敗 207.0イニングで防御率3.09。完投6回うち2回は完封。
勝ててこそいないもののついに先発として復活する事になった。

そして翌年1977年。
トミー・ジョンは若かりし頃届きもしなかったサイ・ヤング賞に近付くことになる。
ドン・サットンが14勝7敗と比較的不安定な中、20勝7敗とエースとして活躍。防御率も216.1イニングに対して2.78。彼を原動力にチームは優勝までする。
サイ・ヤング賞はこの年23勝したフィラデルフィア・フィリーズのスティーブ・カールトン。なにからなにまで彼に負けてしまいサイ・ヤング賞は取り逃すものの、それでも他の投手の追随は許さない存在感を示した。

ここから1980年までサイ・ヤング賞に名前を連ねる事になる。

そんな彼も1978年。ドジャースからフリーエージェントの道を選ぶ。
手を挙げたのは三球団。シンシナティ・レッズ、カンザスシティ・ロイヤルズ、ニューヨーク・ヤンキースであった。
トミー・ジョン、いや、ロサンゼルス・ドジャースにとってニューヨーク・ヤンキースは目の上のたんこぶみたいな存在であった。
1977年,1978年とナ・リーグを優勝したドジャースは毎年のようにヤンキースと対戦。そして連敗をしていた。

丁度この頃は1975年のデーブ・マクナリーやアンディ・メッサ―スミスといった選手の行動から生まれたフリーエージェントの時代が始まり、ヤンキースもオークランド・アスレチックスからレジ―・ジャクソン、キャットフィッシュ・ハンターを獲得したりと金銭に物を言わせてやりたい放題をしていた頃でもあった。
また、監督ビリー・マーチン、オーナージョージ・スタインブレナー、選手のレジー・ジャクソンといったよく言えば個性豊かな、悪く言えばやりたい放題な面々がやりたい放題な事をしていた、いわゆるブロンクス動物園の頃であり、実際1978年もスタインブレナーとマーチンが喧嘩別れをしてボブ・レモンに監督を譲り、翌年後半にボブ・レモンを退任させマーチンが戻ってくるなどやりたい放題もいいところな時代であった。

しかしトミー・ジョンはそのヤンキースに進むことになる。
契約金が14億ドルという契約金もそうであったが彼の発している「I like to play for a winner.」に真意はあるだろう。ヤンキースに何度も敗北したドジャースのプレイヤーであった彼にとってはさらなる勝利と栄光、というところに落ち着いたと考えてもいい。

3,ヤンキース時代

かくしてトミー・ジョンはヤンキースの背番号25に袖を通すことになった。この時36歳。40歳を過ぎても先発を続ける投手が比較的多いのがメジャーの特徴でもあるが、この年でキャリアハイを出す投手はさほど多くない。
その中でのキャリアハイ、21勝(9敗)防御率2.96であった。

特に印象的なところは自身最高の276.1イニング投げたところであろうか。
まだ先発の完投が多かった時代、エースに求められるイニング数はたいてい250を超えている。
オールスターで一緒になったルイス・ティアントも68年では268イニング投げているし、トレードに出される前のシカゴ・ホワイトソックスではジョー・ホールトンやウィルバー・ウッドが250イニング越えを果たしている。ウッドに関しては371イニングを投げている年もあり、ウッドがどれだけ絶対的な存在であったかがうかがえる。
ドジャースでもドン・サットンが毎年のように250イニングを超え、のちに加入したアンディ・メッサースミスも同じくらい投げている。エースと呼ばれるには勝敗もさることながら試合を任されるイニング数。これが絶対であった。

トミー・ジョンという投手が288勝もしながら投手として陰に隠れがちなのはこれに他ならない。類まれなる良投手ではあるものの、エースというには降板が早い。
当時の感性で言ってしまえば「最後まで任される投手ではない」からこうなっているのだ。まだまだ先発完投がエースの証であった頃を思えるところだろう。

その彼が初めて250イニングを超えた。完投も17。うち完封3。
ヤンキースのエースロン・ギドリー、かつての同僚でありながら奇しくもヤンキースでまた同僚となったルイス・ティアント、かつてオークランド・アスレチックスで押しも押されぬエースであったキャットフィッシュ・ハンターを抑えてエースとして初めて君臨したのだ。

しかしそれでもボルティモア・オリオールズのマイク・フラナガンにサイ・ヤング賞を奪われてしまう。
彼の成績は23勝9敗。265.2イニングに対して防御率3.08。正直に言えばトミー・ジョンとほとんど差はない。
2勝の差はあるが、それと同じくらいア・リーグに在籍し続けていたマイク・フラナガンと選手が自分の意思を出すことで反発も生まれたフリーエージェントでドジャースを捨てる形でやってきたトミー・ジョンという部分もあったのではないかと筆者は考える。
マイク・フラナガンも一流の投手であるものの通算勝利数141と、トミー・ジョンと比較するとどうしても一枚落ちる。その二人が同等の成績を残しながら彼が選ばれるというのは不思議にさえ思うのだ。

もともとフリーエージェントはオーナーなどからは不評を買っていたのは周知の事実である。1981年に発生するストライキもフリーエージェントにおける選手側とオーナーの軋轢が原因である。
日本では過去の15年選手のようなご褒美としての気質が大きいフリーエージェントであるが、アメリカでは血文字で書かれたものであることを知っておかねばならない。
一般的にフリーエージェントの立場が確立されていなかった時代だからこその評価も多分に含まれているのであろう。
選手が自由に契約を勝ち取る事と、野球が出来るという理由だけで一人の人間に多額の資本が入ってくる矛盾は,、選手と球団間のみならず多くのファンや広報の感情が入り交じり、解決する事のない永遠の課題なのかもしれない。

この後マイク・フラナガンはサイ・ヤング賞にかすりもしなくなっていく。先発として存在感はあるもののその大半をほとんどボルティモアで過ごす。

翌年も去年を上回る22勝8敗を残すもののサイ・ヤング賞では4位。一位はア・リーグ優勝したボルティモアのスティーブ・ストーン。32であった。
彼もまたシカゴ・ホワイトソックスからフリーエージェントでやってきたのにも関わらず、だ。
それどころか同じチームのリリーフ、リッチ・ゴセージにも負けている(3位)。五位がカンザスシティ・ロイヤルズのアンダーハンド、ダン・クイセンベリーであることを考えると彼ら抑えと同じくらいの評価をされているということになる。
抑えというものが評価された時代であると受け取れる半面、トミー・ジョンはヤンキースのエースだから仕方なく投票された、という感じもしなくもない。
この年だけ活躍した二位のマイク・ノリス(OAK)以下と考えると恣意的なものを感じずにはいられない。
このスティーブ・ストーンも翌年の81年引退。マイク・ノリスも翌年以降パッとせずに90年に姿を消している。

ここで彼はサイ・ヤング賞からかすりもしなくなる。
81年はストライキの影響もありながらエースとして活躍しており9勝7敗。翌年も10勝10敗と存在感を見せつけていた。

しかしこの82年8月31日。風雲急を告げる。
カリフォルニア・エンゼルスにデニス・ラスムッセン含む数名の選手とトレードに出されたのだ。


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