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投手トミー・ジョンを追え ~上~

And you wouldn't have been in this mess if you hadn't given up Tommy John

https://twitter.com/policeincolor/status/1508187604415488000?s=20

1982年放送されていたコメディドラマ、police squad!にゲスト出演したドジャースの監督、トミー・ラソーダは情報屋のジョニーから出来のいい左腕の情報を買った時、そう皮肉られて頭を抱える事になった。
「トミー・ジョンの移籍を止められていればこんな悩みはなかったろうな」と。

1978年11月13日。ロサンゼルス・ドジャースからFAしてニューヨーク・ヤンキースに渡った左腕、トミー・ジョン。
1979年、エースであったロン・ギドリーの18勝を抑える22勝(9敗)、防御率2.93と大活躍し、サイ・ヤング賞二位にまで上り詰める事になる。一位にはボルティモア・オリオールズのマイク・フラナガンが圧倒的なピッチングをシーズンで見せつけたために受賞を取り逃す事になってしまったが、1977年、1978年とドジャース時代からサイ・ヤングを争ったトミー・ジョンが36歳という高齢、ア・リーグという慣れない環境でも活躍できることを証明し、結果ドジャースは大魚を失ってしまった事になる。
それに代わる選手はいないか、と半ばユーモアたっぷりにドラマに登場したのだった。まあ当時、すでに彼の後釜となった左腕、フェルナンド・バランズエラがエースとして台頭しており、ジェリー・リュースも活躍はしてなくとも安定はしていたので杞憂に終わるのだが。

日本はおろか世界においてもトミー・ジョン、という名前はTJの頭文字と共に知れ渡っている。
最早投手にとってTJという名前を避けて通れる方が珍しいのではないか。
1974年、試合中に切れた肘靱帯をドジャースのチームドクターであったフランク・ジョーブが反対の腱を使う事で乗り切った、という通称トミー・ジョン手術最初の成功例であった。いや、まだ様々なところが確立されていなかったことを考えると現在のトミー・ジョン手術とは違うものかもしれない。
少なくとも肘靱帯の腱を失い、また復活させたという逸話と、その手術が世界的に広まり、今ではジェフ・パッサンが著書『鉄腕』で問題視するほどメジャーな手術となった。

しかし、案外ではあるがトミー・ジョンという投手そのものの話は聞かない。トミー・ジョンがどういう投手であったかすら知らない人の方が多いだろう。
そこで改めて手術の成功者、トミー・ジョンではなく、トミー・ジョンという投手に焦点を当ててみたいと思ったのである。


1,クリーブランド・インディアンズ時代

トミー・ジョンと言えばドジャース、もしくはヤンキース、というイメージを持たれている人は多い。
1970年代後半から80年代前半において絶頂期を迎えたトミー・ジョンは1977~1980年と四年連続サイ・ヤング候補に名を連ねている。78年からは三年連続オールスターに出場、ナ・リーグで選ばれた後、ア・リーグでも選ばれた事になる。
もしくは若き頃のホワイトソックス、という人もいるかもしれない。

そんな彼のキャリアスタートがクリーブランド・インディアンズ(現ガーディアンズ)である事を知る人は少ない。
18歳、インディアナ州立大で投手をしていた彼はその年のうちにインディアンズと契約、Dクラスのダビューク・パッカーズに入団する。投手としてはインディアナ州立大初のプロ入団でもあったりする。そしてインディアナ州立大出身の選手では一番活躍しているからいかにトミー・ジョンという投手が恵まれた素質を持った選手であったかがよく伝わってくる。安打数だけでも野手含めて四位(141安打)なのだからその素質たるやインディアナ州立大出身の選手ではずば抜けた存在である。(一位はロッキーズなどで活躍したクリント・バームスの932安打)
その彼がルーキーがほとんどとはいえいきなり入った球団で10勝(4敗)し、62年には3Aジャクソンビル・サンズで投げているのだからすでに別格の雰囲気が漂っている。
面白い事にこのジャクソンビル、若きルイス・ティアントが在籍している。キューバの産んだ200勝トルネード投法と一緒であった。つまりトミー・ジョンの288勝、ルイス・ティアントの229勝の二人で500勝近く稼いでいる投手が若手として同じチームにいた。

しかしティアントはキャリアの1/3に当たる75勝しているのにも関わらずトミー・ジョンはわずかに2勝。後に288勝する投手であることを考えるとインディアンスはかなりの大魚を失う事になる。
歴史にもしはないが、もしトミー・ジョンがインディアンスにいれば、インディアンスはもっと大きく飛躍していたかもしれない。一方でご存じのようにトミー・ジョンは大けがをするのだからイマイチパッとせずに終わってしまうかもしれない。こういう歴史のifを考えるのもこういった醍醐味だ。


1963年、ティアントを追うような形1963年9月6日、ワシントン・セネターズ戦(現テキサス・レンジャーズ)でデビュー。
七回ウラに打ち込まれたディック・ドノヴァンのリリーフとしてマウンドに上がり1回1失点。目立たないデビューであった。
その年は0勝2敗、64年はロースターに定着するものの先発とリリーフを行き来する、いわゆるスイングマンとして一年いるものの2勝9敗とイマイチ。

大した印象も残せず1965年1月20日、カンザスシティ・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)、シカゴ・ホワイトソックスとの三角トレードでホワイトソックスに移籍する事になる。
ここからが彼の野球人生の始まりとなっていく。

2、シカゴ・ホワイトソックス時代

ホワイトソックスにとってトミー・ジョンは特別若い投手の一人であった。65年での最年少はトミー・ジョンと同じブルース・ハワードの22歳。シーズン途中から21歳のグレッグ・ボーロが入ってくるがそれでも若い方になる。
エースはジョー・ホーレンを中心に42歳のナックルボーラー、ホイト・ウィルヘルムと65年にブレイクしたエディ・フィッシャーがブルペンを支えていた
ホイト・ウィルヘルムは49歳までプレーをしているので最晩年までプレイをしている選手が揃う事になる。42歳のウィルヘルムにとって後46までプレーする事になる22の若者を見て何を思うか。

この年のホワイトソックスは95勝67敗でアメリカンリーグ2位に当たり、ワールドシリーズに近付いたシーズンであった。
トミー・ジョンもここで覚醒。14勝7敗でシーズンを終えている。去年まで通算2勝11敗の投手が一気にブレイクする事になった。インディアンズもまさかここまでブレイクするとは思っていなかっただろう。
ちなみに三角トレードでインディアンスにやってきたカム・カレオンはほぼと言っていいほど活躍しておらず、翌年66年にボルティモア・オリオールズにトレードされている。あまりにも大きな損失になってしまった。

ちなみにアメリカンリーグの一位はミネソタ・ツインズ。
広島の助っ人外国人一号になったゾイロ・ベルサリエスが原動力となり、また投手陣もマッドキャット・グラントの21勝(7敗)を皮切りに283勝投手ジム・カートが18勝(11敗)、ゲイロード・ペリーの兄ジム・ペリーが12勝(7敗)と大活躍したシーズンであった。
ホワイトソックスの靴下がまだ白くなるには時間を必要とする。

ここでトミー・ジョンは鯉の滝登りがごとく伸びあがっていく。
66年14勝11敗防御率2.62、67年10勝13敗防御率2.47。完封数は二年で11と一気に成長していくのだ。
エースの座こそジョー・ホーレンやゲイリー・ピータースに守られているが先発の貴重な一角として活躍する事になる。

68年、ホワイトソックスはア・リーグ8位と無残な結果に終わるのだがその年トミー・ジョンは初めてオールスターに出る事になる。この年のファン投票投手一位はルイス・ティアント。久しぶりに同期と一緒のチームで試合をすることになる。
他にもハーマン・キルブリュー、ロッド・カル―のミネソタ・ツインズコンビ、フランク・ロビンソンや後に日本に来ることにもなるフランク・ハワードも名前を残している。
この年のオールスターは0-1でナショナルリーグが勝っている。
それもそうだ先発にドン・ドライスデール(LAD)、ホワン・マリシャル(SFG)、スティーブ・カールトン(STL)、トム・シーバー(NYM)、ロン・リード(ATL)、ジェリー・コースマン(NYM)の豪華な投手陣にオールアメリカンは手も出せずに敗戦。ナ・リーグの勢いを感じさせる。
トミー・ジョンも最後のイニングに登板、0.2イニングを投げている。
なお、この年は10勝5敗と少し寂しいのだが防御率1.98とすさまじい成績を残している。

しかしこの68年を最後に輝きが失われていく。
69年9勝11敗を皮切りに70年12勝17敗、71年13勝16敗と敗戦が増えていく。防御率も三点台が中心になり71年には3.61。着実に終わりが見えてきたような雰囲気があった。
遂に71年12月2日。スティーブ・ハンツと共にロサンゼルス・ドジャースにトレードされてしまう。ドジャースの出す選手はディック・アレン。
フィリーズの主砲であったディック・アレンはセントルイス・カージナルス、ロサンゼルス・ドジャースとトレードされながらもあまり調子がよくなかった。しかし翌年ホワイトソックスに行ったアレンは.308、37本、113打点と炸裂。MVPを獲得するに至る。
そしてトミー・ジョンも投手帝国ロサンゼルス・ドジャース先発陣の一角を担っていく事になる。

3,ロサンゼルス・ドジャース時代(一回目)

69年、ドン・ドライスデールの引退後、25歳のドン・サットンが現れる事でドジャースの投手黄金期は続くことになる。60年代がドン・ドライスデール、サンディー・コーファックスの時代であるならば70年代はドン・サットンが絶対のエースとして君臨していく事になる。
彼もまた88年の43歳まで投げ続けるからトミー・ジョンが関わった選手がいかに面白い経歴をしているか思わずにはいられない。
60年代の残り香としてドライスデール、コーファックスと共にチームを支えたクラウド・オスティーンが先発の一角を支えているものの三本目の柱が見つかっていない。
71年ヤンキースなどで先発をしていたアル・ダウニングを獲得。20勝(7敗)するが年齢的に活躍出来ても数年。クラウド・オスティーンもいつ離脱するか分からない中、先発を欲してのトレードであった。

ドジャースタジアムは現在でこそあまり広い球場として扱われていないが、当時はアメリカでもトップクラスに広いと言われた球場。そのためブルックリン時代の恐竜打線を捨て、投手力を主体にしたチームにしていったのはかのアル・カンパニスが書いたドジャースの戦法でもご存じだろう。
投手力だけには力を抜けない。多少打力を落としてでも常に活躍できる先発投手を必要としてのがドジャースというチームなのだ。

事実72年の主砲は36になったフランク・ロビンソンと32のウィリー・デービス。その彼らがチーム一位の19本という内容なのだからいかに打力を重視していなかったかがよくわかる。
ちなみにこの五年後、ウィリー・デービスは日本の土を踏むことになる。
そして控えにボビー・バレンタインという控え野手がおり、紆余曲折の末79年引退。その十数年後、彼もまた日本の土を踏む事になるのだがここでは別の話。
そしてトレードでドジャースに来ていたホイト・ウィルヘルムとまたもや同期になる。トミー・ジョンという投手の人生はやたらに投手として長生きした選手との縁が強い。

72年はドン・サットンを中心に、クラウド・オスティーン、アル・ダウニング、ビル・シンガーと共に先発五人体制で進むことになり、11勝5敗(2.89)と久しぶりに勝ち越す事になる。

73年、防御率3.10ながら16勝7敗と勝ち越し。9勝勝ち越しはエースドン・サットンの8勝を上回る。

そして74年、その年がやってくる。

前半の彼は完全にエースであった。
4月の段階で5勝0敗、5月、6月に3勝1敗、7月12日までに13勝3敗という超ハイペースで勝利を重ねていたのだ。アンディ・メッサ―スミスも勢いがあり、ドン・サットンも相変わらずの安定感。事実この年ドジャースは優勝しており、オークランド・アスレチックスとワールドシリーズを戦っている。
課題であった打撃もスティーブ・ガービーが.312、21本、111打点でMVP、ヒューストン・アストロズからやってきたジム・ウィンがキャリアハイの.271、32本、108打点の大活躍。
投打がかみ合い、ワールドシリーズも十分勝てる戦力だった。
確かにオークランド・アスレチックスは主砲のレジー・ジャクソンを中心にサル・バンドー、ジョー・ルディ、ジーン・テナスの怪打線と、キャットフィッシュ・ハンター、ヴィダ・ブルーの先発陣が整っており、打のオークランド、投のドジャースというほこたて対決が観られるはずだったのだ。

しかし、そのワールドシリーズにトミー・ジョンの名前はない。
それどころかあれほど活躍したのにオールスターにすら名前がない。
何故であろうか。

1974年7月17日。
彼はモントリオール・エクスポズの先発としてマウンドに上がっていた。
しかし彼は2イニング投げたところで降板。2失点しただけだ。
投げ負けたと決まったわけではないのに、何故。

この時、トミー・ジョンの左肘の腱は断末魔の叫び声をあげた。

次回に続く

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