杉下茂と北別府学を偲ぶ

中西太逝去の時も書いたがこういうのを書くのはあまり好きではない。
彼らの先達の名前を使って自分を売り込もうとしているように感じるからだ。
だが、自分の中で思い入れの深い選手であることも事実なので、あくまで「私の話」として書く。

思えばこの二人を知った事は野球史に踏み込むきっかけだった。
私が野球史に触れ込むきっかけが実況パワフルプロ野球に多く作られたOB選手の存在であったからあれらがなければ興味の一つも持っていなかっただろうと今でも思う。
特にPS2にパワプロが来た時に多くのOBが増えた事は今でも記憶に残っている。古い投手に杉下という選手がいてフォークをぶん投げてくる人がいる。北別府という選手は変化球を四つ持っている。
学校と部活で息も詰まるような高校生が数少ない息を抜ける場面がそういうゲームで遊び、いつの間にか学ぶきっかけになっていったのだ。
この後に書籍を買うようになり、江夏豊、稲尾和久、トム・シーバー、ノーラン・ライアンと知識を得ていく。

特に杉下の印象は深かった。
私が野球を観始めた頃、最も騒がれた変化球がフォークであった。他ならぬ大魔神佐々木主浩の存在であった。変化球数多しと言えども消える魔球、それはあたかも巨人の星、星飛雄馬の大リーグボール二号のような変化球と言えばフォークだった。
そのフォークを投げる投手がいる。そこからウイニングショットというものを覚えた。

そして後年杉下茂を調べると彼はフォークを投げる事をあまり良しとしていなかったという話を聞いて大変驚いた記憶がある。
ボールのスピードが遅くなるから、という事だった。
ここで不思議に思った。
フォークはどちらかと言えばスピードの速い変化球である。それこそブレーキングボールと言えばカーブやスクリュー、チェンジアップといったものになるがフォークはスライダーなどのハーフストレート寄りの変化球と常々思っていた。
その第一人者がなぜ。
その疑問があるから私は「杉下茂のフォークはストレートと比べて遅かったのではなく本当に遅かったのではないか」と思った。
それをコラムで「杉下茂のフォークは速かったのか」と銘打ってこうではないか、と仮説を起こしたこともある。

私にとって変化球とはなんなのか、とずっと問い続けた男であった。

また彼は社会人時代にいすゞ自動車にいた事も知られている。1946年に在籍していた。現在湘南の片隅で住んでいる私には藤沢に本拠地を持っていたいすゞ自動車野球部と不思議な接点を感じた事がある。
今は休部しているのでその姿を見る事はないが、社会人野球を追って多くの試合を観るようになった。彼の歩いてきた道をまるで追うように、だ。

別段私は杉下茂の試合を観た事はない。コーチの姿もイマイチだ。
だが、私の歩いてきた軌跡を振り返ればのっぽのメガネをかけた男がそこにいたのは間違いない。

北別府も知ったのはパワプロであったが同じ変化球量という事で尾花高夫とかぶったり変化球量という事で同じく広島の大野豊の印象があったりで印象はなかった。
しかしベースボールマガジンの特集で彼の名前を精密機械、と呼ばれてから覚えたところが大きい。
精密機械。阪神から毎日にいった小山正明といったコントロールが決める投手にしかつけられない称号。これは印象に残った。

しかし印象に残ったのは高校の読売新聞でだった。
当時はスポーツ欄も読むようになっており、ドラフト候補などをスクラップするようになっていたのだが、その時たまたま変化球講座があったのを記憶している。カーブが堀内恒夫、ツーシームが神部年男だったことを覚えている。
その中でひときわ印象に残ったのが北別府のスライダーだった。

スライダーというのは大きく変化をさせない。目の前でちょろっと変化させるもの、という事だった。
今考えたら現在で言うカッターやカットボールのような変化球だった。
パワプロに育てられた私は変化量が大きい事こそ正義と思っていた。しかし精密機械と呼ばれた男はそれを是としない。

丁度その頃江夏豊の書籍を読んでいて、彼は若い頃は81球、全てストライクアウトで試合を終えたかったがリリーフをやる様になってからは27球、全て一球で打たせて終わらせたいと言っていた。
その江夏豊と北別府学の変化球哲学が結びついた時、野球における投手という世界の深さを思い知ったのだ。

こんなことがあって野球を観る時は相変わらず投手ばかり見ている。
なんなら今どういう精神で投げていて、どういうボールをどうしたいから、このボールをここに投げようとしている、と隣に座っている人にくだを巻くようになってしまった。
過去落合博満は投手が投げなければ野球は始まらない(それゆえ打者はどうしても受け身になる)と言っていたが、その世界の面白さにどっぷりつからせてくれたのが北別府学なのだ。

彼は都城出身。
都城と言えば岡山から単身強いと言われる高校でもないところに留学した高校生が今、日本を沸かせるエースとなりオリックスで投げている。
その彼と同じ都城の空気を吸った彼をどう見ていたのか。今更ながら聞いてみたいところだ。

この二人から得たものは多い。
それゆえに鬼籍に入られたのは残念と思うほかない。

だが、ただそっと眠ってほしいと思うのだ。

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