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【中編】目薬・2

「アキちゃん、今日のネイル上品でいいね。私、そういうののほうが好き」
 ようやくシュピッと動いてくれるようになったリッチくんを操作する手を止め、肩を回しながら隣の席の後輩に話しかける。

『資料収集、まとめ、制作ならなんでもおまかせ』

という看板を掲げる中小企業である我が社の社風はかなりゆるめだ。仕事中の私語はもちろんのこと、イヤホンを耳に突っ込んで仕事をしていようと、派手なネイルをして出社しようと、誰にも文句を言われない。
 チラリと目をやった課長席では、宙に浮かんだカツラが大きく前後に揺れている。寝ているのだ。前髪部分がそのつどふわりと持ち上がり、吹き出しそうになって慌てて目をそらした。
「えー?」耳からiPodのイヤホンを引き抜きながら、アキちゃんがふり向いた。漏れ聞こえるのはジブリのクラブ風リミックスだ。
「一週間前からずっとコレですよ。つかさ先輩、やっぱり視力落ちちゃったんじゃないですかぁ?」
 だからPCメガネ使った方がいいって言ってるのにー、と言いながら、アキちゃんはご丁寧に爪をこちらに向けてくれた。薄いパールピンクに白の逆フレンチネイルは、昨日とまったく別物に見える。
「ほら、このラインストーンのハート、一個一個がすごくちっちゃいでしょ? 片手分つけるだけで一時間も待たされたんですから! ま、その甲斐あって、キラッキラになりましたけど……って、この話もしましたよね?」
 された。特に聞きたくなかったけれど、文字通り右から左へと通りぬけていった話題の一つだ。
 だけど、たしかにそうなのだ。昨日までの彼女のネイルは、夕方の西日に当たって、光線と見まがうほどの眩しい光を放っていた。銀色の光が眼球を突き刺さんばかりに攻撃し、何度も何度も目をつむってしまった。課長が見えなくなった原因も、最初はそれかと思ったほどだ。
「石だけ見えなくなるとか……」
「先輩、一人言増えるのって老化の始まりらしいですよ?」
 とっておきのこわい顔で思い切り睨みつけてやったのに、アキちゃんはネイルを電灯にかざすのに夢中で、こちらには微塵の注意も払っていない。うっとりした顔でそこにあるはずのラインストーンを見つめている姿は、なんだかこっけいだった。
 そういえば私は、アキちゃんが手を動かしたとき、この石がマグカップやキーボードにぶつかってたてるカチカチという音も耳障りだと思っていたのだった。そうか。私はこの石が嫌いだったのか。初めて気づいたようで、改めて納得させられたような気もする。裏を返せば、アキちゃんが見えなくならないということは、私が嫌いなのはあの石だけで、アキちゃん自身は好ましく思っているということだ。
 急に、日常生活いっぱいに、隙間なく踏み絵を敷き詰められた気分になった。知らず知らずのうちに、何を踏んでいるかわかったものではない。さながら追い詰められたキリシタンだ。
「あれっ、先輩、その印鑑ケース!」
 突然、弾んだ声で指をさされた。貧血で倒れる直前みたいに、頭がスッと冷えていくのを感じる。まずい。さっき、書類にハンコを押したときにしまい忘れていたんだ。とがった爪の先にあるそれは、デスクの上でひときわ存在感を放っているように見える。私の錯覚でありますように、と強く願った。
 地のオフホワイトに、赤やオレンジのバラの花が描かれた印鑑ケース。アキちゃんみたいなギャル系の子にも、清楚なお姉さま系にもなじみそうな、気の利いたルックス。
「すっごくカワイー!」
 キラキラとカワイイに目がないアキちゃんは、見てもいいですか?と尋ねると、返事をするより先に、デスクの上から印鑑ケースをかすめ取った。
「ナチュラル系の先輩にしては珍しくないですか? こういうカラフルな小物って。いいないいなぁ、印鑑ケースって、たいてい真っ黒で可愛くないですよねぇ」
 良かった、気づかれてない。
 ホッとすると同時に、何か苦い味のするものが、胸の上の方に流れ込んできた。アキちゃんは二十三歳だ。その年齢にとっては、これまで二十代でいた時間より、これから二十代でいる時間の方が長いのだ。彼女はまだ、あんなものを必要としていない。
「ねえねえマネしちゃだめですか? どこで買ったか教えてくださいよー」
「出先で見つけた雑貨屋だったと思うけど、どこの駅だったかまでは覚えてないなあ。それに、一点ものだったような気がするし」
 深入りされないよう慎重に口にすると、アキちゃんは頬を膨らませた。
「えー、思い出してくださいよぅ」
 そんな話をしていたら唐突に、そういえば今日は発売日だ、と気がついた。
 正確に言うと発売日は明日だが、そこはあまり栄えていない街のコンビニの鷹揚さで、夜にはすでに翌日の品出しが終わっている。
 終業後、最寄りの駅を出て、家とは反対方面に歩いた。三分とかからず、見慣れた青い看板が見えてくる。店員のおざなりな出迎えを聞き流しながら、店内に入るとすぐに雑誌売り場に直行した。
 アレは、まず普通のファッション誌のように棚に差し込まれていることはない。雑誌自体も、中に挟まった付録の箱も分厚すぎて、収まる場所がないのだ。コンビニでも家でも同じ。どこにも入れられない雑誌は、ただ積んでおくしかない。
 同じく積まれたキャリアウーマン向けファッション誌の隣。棚に差されたママと子どものペアルックが微笑ましい主婦雑誌の下。白砂糖のように真っ白で甘く、メレンゲのようにふわふわした服を身につけたモデルは、いつもの場所で誇らしげな顔を見せているはずだった。
 が、慣れ親しんだ定位置に、それは存在しなかった。
 異変に気付いた私は、すぐに周辺の棚に視線を動かす。
 まさか、そんな。
 飽きもせずブランドのトートバッグを挟み込んでいるコンサバ系ファッション誌。縁もゆかりもない外国人セレブたちの下世話な噂話を、ねっとりとなめるように書き連ねたゴシップ誌。水風船みたいにまん丸く膨らんだバストをせり出しながら、上目遣いにこちらを見つめる青年漫画。棚には差さっていないと知っているはずなのに、いくつもの雑誌を出しては戻し、出しては戻す。
 ない。ない。ない。焦りながら、目と手をせわしなく動かし続ける。

 ――見えなくなってしまったのかもしれない。

 その可能性にいきついて、私は呆然と本棚を眺めた。
 八頭身のハーフモデルが。Iカップのグラビアアイドルが。子どもと手をつないだママが。あらゆる顔が私を見つめる。アレはあなたにとって、本当に必要なものだったの? 雑誌の群れが、無言で私を責め立てる。
 あれが私にとって、不要だったというのだろうか。
 知らず知らずのうちに、目の前にあった踏み絵を踏んでいたのか。
 ずっと求めていたはずだったのに、心の底ではもう見たくもないと思っていたのかもしれない。みんなに置いて行かれたくなくて。世の中の声に流されて。自分が本当は何を欲しているかなんてろくに考えもしないで、いつの間にか、周囲をあいまいに漂う「せねばならない」に、丸呑みされていたのかもしれない。
自分で自分がわからなかった。
「あの!」
 客のいないレジに駆け寄り、たばこの補充をしている背中に声をかける。先ほど気のない挨拶をしてきた店員が、長い前髪をブラインドのように揺らしながら、生気のない目を向けてきた。
「今月号の、」
 声よ、か細くなるな。堂々とそれを言え。
 ブラインドの向こうに見える眉と眉が、怪訝そうに距離を縮める。

***

 放心状態で、帰路についた。赤子ほどの重みがあるその雑誌は、普通のレジ袋ではビニールがちぎれてしまうため、不織布でできた特製のトートバックで提供される。腕が重くて仕方がないけれど、そのだるさが心地良くすら思えてくるのが、自分のことながらおかしかった。

 ゼクシィ、ありますか――

 そう言うと、店員はすぐに「ああ」という顔をしてレジの奥へと引っ込み、まだ縛られてすらいないそれを持って戻ってきた。なんのことはない。バイトに入って日が浅い彼は、発売前日に雑誌を並べるというその店のローカルルールを知る由もなく、その日やるべき仕事をこなしていただけだったのだ。

 家に帰ると玄関がきれいになっていた。
 いつも散乱しているはずの誠太の靴がない。会社用の靴は黒、こげ茶、なめ革のキャメルの三足、今日履いていったのが何色かは知らないけれど、残りの二足分、左右四つの靴と、徒歩五分圏内専用の黒のクロックス、カジュアルな服に合わせるための蛍光グリーンのラインが入ったニューバランスが玄関いっぱいに転がっているのが我が家のデフォルトだ。なぜ今日は一足もないのだろう。
 一歩足を踏み入れたら、ショートブーツのつま先が固い何かを踏みつけた感触がした。慌てて足を引き、その場でブーツを脱ぎ捨てる。そうだ、きっと靴はあるのだ。今の私に、それが見えないだけ。つまさきをバネに、大股でぴょんと向こう岸のフローリングへと跳んだ。幼少時代のだるまさんがころんだを思い出す。頭の中で「はじめのいーっぽ!」と無邪気な声が響いた。

 筋を違えそうになりながらも、必死に腕を伸ばしてブーツを拾い、自分が日々、インテリア雑誌に登場するような美しい玄関を夢見ていたことを思い出した。自分の靴はすべてDIYで取り付けたシューズラックにしまう習慣がついている。ハレの日専用の靴や、奮発して購入したものの一度も足を入れていない靴は、チェキで撮影したポラロイド写真を貼りつけた揃いの黒い箱に入れることにしていた。
 誠太の靴がないだけで、玄関はこんなにも私の理想に近づくものなのか。
 変なところに感心しながら、通勤かばんをクローゼットにしまい、ジャケットにブラシをかけて埃を払う。決してきれい好きだとか、潔癖症というわけではないと思う。物があり、その物の置き場がきちんときまっている。そのささやかな秩序に、安心感を覚えたい、ただそれだけ。しかし、この妙な眼病を患ってから、この習慣を続けていた自分に感謝したくなることが増えた。自分の持ち物が見えるのか。正確に言うと、今日もまだ見えているのか、すぐに確認することができるからだ。
 買ってきたゼクシィの置き場は、ラブソファの横にあるマガジンラックの隣だ。ラックに入れたら、分厚すぎて他の雑誌が入らなくなってしまう。仕方なく、コンビニ同様、我が家でもゼクシィは平積みにしておくことに決めた。雪崩そうになったら、古いものから順に縛ってクローゼットの横に積んでおく。
 今月号の付録は通帳ケースだ。うまいなぁ、と毎月毎月嘆息する。一人暮らしをしているときにはなかなか必要性を感じないが、結婚して家庭を持つようになったら、いかにも使いそうなアイテムじゃないか。北欧風模様のスリッパ。花柄の包丁とまな板。リバティ模様の持ち手が入ったドライバーセット。そして印鑑ケース。
 今日は冷凍してある鮭の切り身を解凍して、ニンジンと玉ねぎと合わせてホイル焼きにしよう。我が家のホイル焼きは、味噌マヨネーズで味付けするのがテッパンだ。誠太はケチャップだとかカレーだとか、そういう子どもウケする味を好む男だから、どんなに複雑なソースを作ってみたところで、結局同じ味に戻ってきてしまう。

 同棲カップルの二人暮らしも、我が家と呼べるのか?

 ふと浮かんだ素朴な疑問が、とても重要なテーマであるような気がして、献立の副菜を考えるべく回転し始めた頭の片隅にひっかけておく。トイレのドアを開くと、シミ一つないまっさらな壁とツルツルの便器が私を出迎えた。「拭いてくれたの?」なんて尋ねるような愚行は二度とするまい。汚れはきっとそこにある。けれど、私が見たトイレは今日もきれいだ。
 鍵の開く音のあと、少し遅れて靴を脱ぎ捨てる音がする。ただいまあ、という誠太の間延びした声をかき消すように、流すのレバーを大に押し込んだ。

(3へ続く)

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物語は徐々にゼクハラへと。

サポートをご検討いただきありがとうございます! 主に息子のミルク代になります……笑。