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【中編】目薬・4【完結】

 リビングから聞こえるテレビの音で、誠太の帰宅が確認できた。今日はずいぶんと仕事が早く終わったらしい。開いたドアから漂ってくる香ばしい醤油の香りは、柿のタネだろう。どんなに早く帰ってきても、家事嫌いの誠太が夕飯を準備していることはない。ビールの一本でも開けながら、空腹を紛らわせていることだろう。
 昨日の残りの切り干し大根がある。今日は何だか凝ったものを作る気もおきないから、買っておいた冷凍品のカツオのたたきを、玉ねぎのスライスとニンニクと、しその千切りを添えて出してしまおうか。
玄関で靴を脱いだら、何かを踏んづけた感触がしたけれど、それもだんだん気にならなくなってきた。何色かはわからないけれど、誠太の革靴のうちのどれかには間違いない。踏まれたくなければ片づければいい。どれだけ文句を言われようと、私の目に映っているのは、靴一つない快適な玄関だ。
「ただいまぁ」
 リビングに足を踏み入れながら、何気なくラブソファに目を向けて、あ、と小さく口を動かした。
おかえり、という、誠太のいつもと変わらないトーンの声が耳に入った瞬間、お腹の下の方で、何かがぼこぼこと生まれては弾け、生まれては弾けているような感覚に襲われる。それは徐々に胸、のど、頭へと昇っていき、暑くもないのに頭頂部から湯気が出ているような錯覚を感じた。

 マガジンラックが、空っぽだった。

 クローゼットの横に積んでいたはずのバックナンバーも、一冊残らずなくなっていた。
「誠太」
「何? 腹減ったから、早く飯が食べたいな。あ、柿ピー食う?」
 自分でも声が震えているという自覚があるのに、誠太は笑顔すら浮かべて、引き裂かれたアルミ袋をこちらに差し出してきた。
「私の雑誌、どこにいったか知らない?」
「雑誌?」
「ゼクシィだよ」
 努めて冷静な声を出そうとして、少し失敗したなと、頭の片隅の冷静な部分が舌打ちをした。
何しろ、こんなに毎月毎月も買っている雑誌なのに、この家でその名を口にしたことはないのだ。今、私は初めて、自分が毎月ゼクシィを購入していること、それを後生大事に保管してきたことを告げたことになる。
はぁ? そんなの、俺が知るわけないじゃんか。
ああ、邪魔だったから、全部捨てちゃった。
言い訳は、想像のななめ上どころか、高速で宙の果てまで飛んでいった。誠太は目を大きく見開くと、それからすぐに、不思議そうな声で言ったのだ。
「そこにあるじゃない」
 何を言われているのかわからなかった。思わず、部屋中をきょろきょろと見回してしまったほどだ。
「全部あるよ。ほら、そことそこ」
 言いながら、マガジンラックとクローゼットを指さす。
「うそ」
 こぼれ落ちた言葉に、誠太は心底心外そうな顔をした。
「何でうそなんてつかなきゃいけないんだよ。あるからあるって言ってんのに」
 それから一瞬間を空けて、誠太は、あ、と小さく呟いた。自分だけに聞こえるくらいの、小さな小さな声で。
「そっか、これも見えなくなっちゃったんだ」
 ああ。
 外国人だったら、オーバーリアクションで天を仰いで、オーマイゴットと叫んでいるところだ。しかし、感情を表に出せない典型的な日本人である私は、心の中で地べたに四肢をつきながら、ため息とも唸り声ともつかない声を吐き出すほか、マグマのように激しく熱く流れる感情をやり過ごすすべを知らない。
 ――ああ。
「ねえつかさ。俺、思うんだけど、つかさは自分の気持ちを見失っているんだと思う」
 空き缶がローテーブルにぶつかって、かちりと音を立てた。
「俺には見えるよ。あっちに積まれてる束も、こっちに突っ込んである方も」
 そして彼は、あろうことか、空っぽのマガジンラックに手を突っ込むと、そっと何かを持ち上げる動作をした。そして左手でそれを抱えると、右手でパラパラとページらしきものをめくり出したのだ。
「キレイだよね、ウェディングドレスって。俺もつかさにこういう格好させたいなって思うよ。俺もタキシードってやつ人生で一度は着てみたいし」
 口元に優しげな笑みを浮かべながら、彼は見えるはずのない花嫁衣裳を眺め続けている。
「でもさ、きっとまだつかさの中では、その準備ができてないんだよ。俺、なんとなく気づいてた。ここ数年、ずいぶん友だちの結婚式に出席してたろ? 早く結婚しなよとか、みんなに言われてたんじゃないの? きっとそれ、つかさにとってプレッシャーになってたんだよ。まだまだ他にしたいことたくさんあるのに、結婚しなきゃって焦ってさ。考えてることとやってることに、ぶれがあったんじゃないかなあ」
 その視線はいつの間にか、雑誌から私へと移っていた。誠太のご高説は、まだまだ続く。恍惚とした表情すら浮かべながら、どこにでも転がっていそうな一般論を「つかさを心配する優しい俺の言葉」として語る。
 誠太。誠太は気づかなかったでしょう。その雑誌は、普通のコンビニ袋に入れると、取っ手が伸びてちぎれてしまいそうになるくらい重いの。そっと持ち上げて、左手だけで支えるなんて、それだけで結構な重労働なんだよ。何冊ものバックナンバーを一気に移動させたから、一冊ずつの重さなんて考えてもみなかったんでしょう。あんなにたくさんの雑誌、いったいどこに隠したのよ。
「早く一緒になりたいと思って、こうやって同棲もしてみたけどさ。まさか、結婚情報誌が見えなくなるくらい、つかさにストレスを感じさせてたなんて、思いもしなかった。ごめんな。俺、早くつかさに見合う男になるようになるから。悪いところとか頑張って直すよ。つかさが自分から俺と結婚したいと思えるようになるまで、待つから」
ねえ誠太。今、私の右手にぶらさがっているものが何かわからない? あなたが今まさに、「私の視界から消えた」と主張している雑誌そのものだよ。そっちが見えないのに、こっちは見えているなんて、そんな馬鹿な話あるわけないじゃない。
私がこのおかしな眼病にかかってからずっと、これを実行する機会を窺っていたのだろうか。まさか、満を持してやってきた決行日に、私が再び同じ雑誌を買ってくるなんて、思いもよらなかったに違いない。けれど、こんな偶然が重ならなくとも、コンビニにはたくさんの雑誌が並んでいるし、一か月も経てば次の号の発売日はやってくる。本当に、この男は詰めが甘いのだ。私がそのことを訴えたら、一体どう対処するつもりだったのだろう。
 ――いや、そうだ。彼ならしゃあしゃあとこう言うだろう。
ああ、治ったんだね、良かったじゃん。でも、再発すると困るよな。しばらくは、遠ざかっておいた方がいいよ。雑誌も買わずに。
そうしてまた、ただの同棲カップルに戻るのだ。夜空の星のように遠く、手の届かない場所にある結婚の二文字が、流れ星となって落ちてくる偶然を願いながら。
 ガゴン、という大きな音がして、自分の手から雑誌を入れた袋が滑り落ちた。体内のマグマはいつの間にか冷えて固まり、重しとなって心臓を圧迫する。目から水分が出てきそうな気配を感じて、私はそっと目を閉じた。
どうしたのだろう。何だかまぶたが熱い。目の前で、大きな鍋をぐつぐつと火にかけているかのよう――。
「つかさ、おい、つかさ? 大丈夫か?」
 大丈夫、と答えながらそっとまぶたを開ける。その次の瞬間、私はそこにあるはずのもののことを思い――そしてすべてを理解した。

「――ああ」

今度こそ、声になる。会社からの帰り道、電車のホームで、忘れないようにと目薬をさした。そのとき、特に違和感を覚えた記憶はない。けれど、その液体は、確かに眼球全体を覆い、私の目と心を守る役割を果たしていたのだ。
「つかさ? どうしたの、何笑ってるんだよ」
 誰もいないその場所から、声だけが聞こえてくる。その声を聞いて、私は笑っているのか、と気がついた。
この男じゃなかったんだ。
心に浮かんだその言葉だけで、体が軽くなった気がする。
 たっぷり残っている目薬の事を考えて、もったいなあと思う。あと一度だけさしてみようか。
『いらないものがなくなって、空っぽになった目に、この目薬は強すぎる』
だとしたら、きっとその一度は、痛いほど目にしみるに違いない。けれど今は、その痛みをじっくりと味わって、咀嚼して、体中に記憶させておきたい気分だ。
「つかさ、腹減ったよ」
 わかったわかった。もうどこにいるかすらわからない誠太を注意深くよけながら、キッチンへ向かう。とりあえず、カツオのたたきを解凍しよう。玉ねぎはたっぷり。しそもたっぷりで。

 今日、また一つ、私の視界から見たくないものが消えた。

<了>

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会議中に「上司が見えなくなった」というモノローグと、ラストで彼氏が消える場面だけを思いつき書き始めたら、何故か途中でゼクシィがキーアイテムになりました。
実際、コンビニでは袋をくれるところとくれないところと分かれてるそうです。あと、4.8キロあるゼクシィの重さは赤子どころではない。

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