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【交換note】根幹に迫ろうとする



交換noteとは、対話・実践ラボの参加者たちが「対話」について考えたあれこれを「交換ノート」のように書き綴っていく取り組みです。

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何をもってして対話なのだろうか、と考えています。

私に続いてnoteを書いてくださった皆さんも、それぞれ書いてくださっていてフムフム…!と考えが広がっていって楽しい限りです。

「対話とは?」といったニュアンスで書いてくださった部分を勝手ながら引用させていただきます…!

いやわからないのかい!
そう突っ込みたくなることでしょう。
というよりも、答えはないんじゃないでしょうか。           
そこに人がいれば対話が生まれる。                   定義やなんや、「対話とは」という問いは葦のように生まれ枯れを繰り返しますが、「人が集まるところに対話あり。」だと今は思ってます。


自分の心に誠実に、場に言葉を置く。
その言葉を誰かが外から見てくれて、微笑んでくれる。
対話は、そんなことの繰り返しだと思います。
本当は、それが当たり前だとも思っています。


みんな対話を求めている


自分の意見をそっと提示し、
相手に受け取ってもらい、
相手の想いを受け取り、
さらなる自分の意見を提示するという作業が必要で、
これこそが「対話」なんだと思う。


なるほど……


私自身は、「根幹に迫ろうとする」ということも、 「対話」のひとつの要素なのかもしれないな、と思うようになりました。


例えば、「優しくなりたいのに、優しくなれなくて…」と相手が言ってきた時。

「あなたは優しいよ、大丈夫よ」

そう言ってあげることもできますが、

「優しい、って何だろうね。何があれば優しいって言えるのかな」

そう返した方が対話的な気がするんです。

本人が思っている「優しい」の根幹に丁寧に迫ろうとすることで、より思考が深く落とし込まれて本質的なところにたどり着けるかもしれません。表面的に見えるもの・出てくるものって本当に限られているから、その奥にあるものにたどり着くにはある程度時間をかけて、ゆっくり向き合う必要があると思います。

※でも、対話がいらない時もあると思うんです。ただただ思いを受け止めてほしい時だってあるから。すっごく悲しくて、涙で海が作れちゃいそうな時に、「その涙はどんな涙?悲しい涙?悔しい涙?」なーんて聞かれても、それはニーズに合ってないと思うし。(笑)だから、「あなたは優しいよ、大丈夫よ」的な言葉がけが「対話的じゃないからダメ」と言うつもりは全くありません。


そうしたある種の「丁寧さ」が、対話を形づくっているのかもしれません。でも、この「丁寧さ」を生み出すためには、まず相手の話にしっかりと耳を傾け受け止めねばならないし、話す側になったら誠実に言葉を選ばないといけないし、乱暴に思いを投げてもいけません。

そう考えると、何となく皆さんが考える「対話」ともつながっている気がしてきます。