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波紋が思考を描く(DAY141)

最近、論語物語を読み始めてます。

思考の海に向かって
どぽんと投石されたように、

波紋がじわじわと拡がっています。


例えば。

「貧富に処する最高の道は、
 結局貧富を超越するところにある」

というお話。


貧乏な頃は人にへつらうまい、
富を得てからは人に驕るまいと気を使っている人に対して、

「それって、チミの心に
 へつらう心や驕る心が残ってるからじゃね?

 気を使うのに苦心してるのって、
 結局のところ
 貧富を気にしすぎてるからでしょ。

 貧富を神さま的な存在に任せて、
 ただ一途に
 仕事を楽しめばいいんじゃない?」

って孔子が言ったよ!

ってお話です。


知り過ぎるからこそ
意識をしてしまう。

情報があふれているからこそ
「足りない」に目がいってしまう。


「知る」という出来事は

情緒につながることもあるけど
自我の肥大につながることもある。


地に足着けて、
目の前のことに集中しなよ。

孔子が

「俺だけを見ろ」

なんて
夢女が身もだえするようなセリフを
言ったかどうかはナゾですが


じゃあ一方で、

「目的を持って生きる」

こととは重ならない面も出てくるのかな?


など、思考を潜るような体験をしています。


投げ入れた「論語物語」という石が、
思考の海に波紋を広げ、
海水をかき混ぜながら沈んでいく感じ。






巷にあふれるハウツー本と比べて
「論語物語」には
本のページ数以上の厚みを感じます。

なぜなんだろう?と考えてみると、

  • エピソードが語られていること

  • 今まで何千・何万という人が
    同じ文章で、
    波紋が思考を描いてきたという歴史

これらが
厚みを形成しているのかなと
現時点では思い至ってます。


ハウツー本で
「こういうときはこうしましょう」
って書かれてたら、
「あっハイ」って感じで
思考の広がりは生まれない。

「廊下は走らないようにしましょう」

と同じです。

これが、

「ある日、孔子の弟子Aが、

 『いっけなーい遅刻遅刻⭐︎』と

 廊下を走っていたら、

 授業に向かう孔子先生にぶつかり

 孔子先生のヅラが取れてしまった。

 弟子Aは
 背中に冷たい汗が流れるのを感じた」

だったら、

読んだ人に
学びは委ねられているので

  • 廊下を走るのはやめよう…

  • 寝坊するのはやめよう…

  • 廊下を走っても万人をすり抜ける
    スキルを身につけよう…

  • 学校でヅラをかぶるのはやめよう…

  • ぶつかって
    誰かのヅラを落としてしまっても
    爽やかに謝る心構えを
    身につけておこう…

「孔子先生ヅラ物語」の
読者それぞれの感性に応じて、
それぞれの思考が広がっていくはずです。

(ちなみに孔子はヅラかどうか不明です)


エピソードのチカラって、
共感しつつ
思考を深めることができるんだなあと再認識。


また、過去のたくさんの人たちが
「論語」「論語物語」を読んで
感じてきたこと、考えてきたことは、
決してその人のものだけで終わり、ではなく

心理学者ユングのいうところの
「集合的無意識(普遍的無意識)」
にも蓄積されてるんじゃないかなと。

だから、1ページごとに
紙の厚さ、文章の厚さ以上の
「厚さ(熱さ)」
が地層のように
折り重なっているんじゃないかなと
思うんです。


だから、
「論語の読み方解説」や
「読書感想文の書き方」は
ほどほどにして、
思考の波紋を狭めないようにしたいです。





夜のネオチ対策として始めた読書。


当たり前なんだけど、
知識欲を満たすだけの出来事にならないよう、
学びを実生活に活かしていきたいです。

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