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パンドラの匣とnote(DAY159)

ここ最近、noteの毎日投稿をするかどうか悩んでいました。
。。。が、

「まあ、続ければいいじゃん、」

という結論に至ったので、

引き続き
ゆるーーく更新していきますよ、
というお話です。


ほどほどに太宰治の作品を読んでます。

女生徒、ヴィヨンの妻あたりが好きです。


太宰治を読むキッカケになったのは、
この本でした。

(何回も紹介しているから、
 すでにご存じの方もいると思う。
 でも、『生まれて初めて聞いた』くらいの
 ノリでお付き合いください)

鈴木秀子女史のご著書、
『死にゆく者からの言葉』の
あるストーリーから

太宰治『パンドラの匣』を知ったのが
きっかけ。

(↑新田さんの講座を受けていて、
 時間に余裕がある方は読んでもいいかもー)


先日のnoteでもご紹介した、
『パンドラの匣』からの
忘れられないフレーズ。

極めてあたりまえの歩調で
まっすぐに歩いて行こう。

この道は、どこへつづいているのか。
それは、
伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。

蔓は答えるだろう。

「私はなんにも知りません。
 しかし、
 伸びて行く方向に陽が当たるようです」

太宰治『パンドラの匣』

このフレーズの前に、
主人公が
「自分はカタチだけの人間だった」と
爽やかに絶望するシーンがあります。
(このnoteの最後に引用しておきます)


昨日ふと『パンドラの匣』を思い出してみて。

キチンと書かなくたっていいじゃない。

しょうもない、
クソな自分ですら表現していくことで、

もしかしたら
誰かの勇気の添え木の小枝くらいに
なるかもしれないじゃないか。

そんなことを想いました。


ちょうどそんなとき、

ふとnoteの

「今日のあなたに」

というオススメ投稿一覧のなかに

図解を壁打ちしている投稿を
見つけました。


あ、わたしもこれ、やってみよう。


とインスピレーションをいただきました。

ありがとうございます。


それで描いたのが、これ。


・・・もろもろお察しください。

ではでは。



改めて、パンドラの匣より引用。

献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。
大違いである。
献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。
人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。
しかし献身には、何の身支度も要らない。
今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧ささげたてまつるべきである。
鍬とる者は、鍬とった野良姿のままで、献身すべきだ。
自分の姿を、いつわってはいけない。
献身には猶予がゆるされない。
人間の時々刻々が、献身でなければならぬ。
いかにして見事に献身すべきやなどと、工夫をこらすのは、最も無意味な事である、と力強く、諄々じゅんじゅんと説いている。
聞きながら僕は、何度も赤面した。
僕は今まで、自分を新しい男だ新しい男だと、少し宣伝しすぎたようだ。
献身の身支度に凝り過ぎた。
お化粧にこだわっていたところが、あったように思われる。
新しい男の看板は、この辺で、いさぎよく撤回しよう。
僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。
全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。
あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。
この道は、どこへつづいているのか。
それは、伸びて行く植物の蔓つるに聞いたほうがよい。
蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」


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