「おすそわけ」のラフランス
寝支度に入る少し前、電話が鳴った。
「今ひま?」
「え、ああ、このあとは寝るだけ」
「実家にラフランスが届いたからひとつ持っていくよ」
「ああ、ありがとう。今?」
「ひまだろ」
「ひまだけど」
「じゃあいくわ」
「あ、やっぱりひまじゃないかも」
「ひまだろ」
「どれくらいで来る?」
「すぐいくよ」
いつもの友達からだった。
前触れなく電話をかけてくるのは、バイトリーダーのおじさんとこの友達くらい。
そのバイト先はずっと前にやめたから、シフト催促の電話をかけてくることはもうないんだった。
家に入るなりラフランスを机にトンと置いた。
お返しには見合わないとわかった上でコーヒーを出す。
「ヘタの周りが柔らかくなったら食べごろ」で、「それまでは手をつけないように」と教えてくれた。
ちょうど貰い物のユズをジャムにしたばかりだったので、それを伝えてからこのラフランスもジャムにしていいか聞いた。
「このラフランスはそういうものじゃないから、ちゃんと食べごろになるまで待って、おいしいときに食べなさい」
長い付き合いの友達はいろいろとわかった上で答えてくれる。
ユズをくれた男と話したこと、そのときに気付いた自分の距離感の癖のこと、その他たくさんのどうでもいいことを話した。
友達はラフランスといくつかの時系列がメチャクチャの土産話を置いて帰っていった。
部屋に戻って、とっくに冷めたコーヒーを飲み干す。
「一杯分の時間」は店にしかないんだった。
思えばうちにも、冬になると段ボールいっぱいのミカンが届いていた。
両親の帰りが遅い日に、兄と奪い合うように食べたことを思い出す。兄がパワプロで選手をひとり作り終えたら、廊下からミカンを抱えて持ってきて、まとめて食べるという具合で。
晩ごはんができるころには満腹で、父はそういう自分に怒ることもなく、ただただ呆れていた気がする。
小さいとき -6歳くらいまでだったと思う- は、いわゆるごはんを食べるのが好きじゃなかった。ごはんを残す代わりに、甘いものだけよく食べた。休日に連れていかれるマックでは、バーガーやポテトには手をつけず、パンケーキとオモチャだけ食べた。
指先が黄色くなるほど食べるのも初めだけで、数日も経てば飽きがきた。
たとえ飽きても、すぐに食べられるものが他にわからなかったので、冬の夕方にはミカンをよく食べた。好きでも嫌いでもなかった。
おかげで、晩ごはんのダイニングテーブルは、いつも白いすじだらけになった。
年を経て、世界が少しずつ大きくなる。
それに合わせてすぐに食べられるものが増えていった。
いつのまにか -中学生のころだったと思う- 、ミカンを食べきれないことがわかると傷む前に母が搾ってジュースにするのが恒例になった。いつもそれなりにおいしく飲んだが、ジュースの量は冬を迎えるたびに増えた。
ある年、ついにジュースを飲むこともなくなった。
その冬は、段ボールの中で緑になるまで放っておかれて、気がつくと廊下から段ボールごとなくなっていた。そのときには、ミカンがだれから届いているのかも、だれが捨てたのかも、あまり考えていなかった気がする。
ミカンはずいぶん遠いところにいったと思った。
水曜日の夜、東京から少し離れたところで働いている知り合いと食事に行った。帰り際、おもむろにリュックの中からユズをふたつ取り出した。
「今日会った人からおすそわけでもらった」もので「田舎ではこういうことがよくある」らしい。
自分はそういう「おすそわけ」をもらったことがないかもしれないと思った。
まだいくつかユズが入ったリュックを閉めながら、使い方を何通りか教えてくれた。
「そのまま食べるでも、皮を擦って豆腐にかけるでもいい」らしかった。
家に帰るなり、ユズを机にトンと置いた。
やっぱり、数日置いたままになった。
気がつくとホクロもシワも増えていた。
果物には、食べるものとそれ以外のものとがある。
もうやることがなくなった夕方、老けたユズをなんとなくジャムにすることにした。
見よう見まねで皮を細く切って砂糖と煮る。
ふたつのくせに皮を切るだけでずいぶん時間をとられる。
砂糖は書いてあるより多めに入れる。
きび砂糖を使ったので見た目は佃煮になった。
買い足したばかりのパンに乗せて食べる。
ジャムはおいしくもまずくもない味になった。
晩ごはんにしては少なかったが、寝るまでにやることは意外と多い。
パンを載せただけの皿も、お茶を飲んだだけのマグカップも明日洗うことにした。
ベッドに横になって軽く目を閉じてみる。
このまま全部明日やることにしようと思った。
そこで、電話が鳴ったんだった。
「おすそわけ」のラフランスは、
白いニットを被されて、食べごろになるのを待っている。
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