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「明日には全部忘れてるよ」

夜道を散歩していたときのこと。
白髪の男が自転車で坂を蛇行しながらくだってきた。目の前で転けられても嫌だしなんとなく見ていた。ちょうど減速しはじめたので気にせず通り過ぎようと思った途端、男はよろけて転けそうになり、思わず体を支えた。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、大丈夫」
「家は近くですか?」
「すぐそこだよ」
10段程あるコンクリートの階段の上を指した。
「昇れそうですか?」
「大丈夫だよ」
「本当に?ですか?」
「大丈夫だよ!」
よろけながらコンクリート塀に手をかける

そこからしばらくは、
「ちょっと飲みすぎてふらふらしてしまった」
「こんなことは初めてで自分でも今の状況がよくわからない」
「昔、おれも逆はしたことがあったが若い人にこういうことをされるのは初めて」
とかを男が一方的に話した。
男は年齢を2回教えてくれたので75歳または77歳で、「これでも結婚している」が、子供とか孫とかのことは聞かなかった。

「まあまあ君も座ってちょっと話そうよ」
コンクリートの階段に男と腰掛けた。 

「なんで止まったんだよ」
「目の前で人に転けられても嫌ですから」
「すごいね、それはおれを見てたってことか?なんで見てるんだよ」
「転けそうになってたからです」
「それでも普通は、変なやつがいるな、で終わりだろ?なんでこう、助けたんだよ。他人だろ?」
「目の前で人に転けられても嫌ですから」
「そうか。変わってるな」

人が来て階段を昇っていきたいようだったので少しよけた。「こんばんは」と言われたが男に言ってるんだと思って無視した。男も無視した。

「それにしても君はなにをやっている人なんだ」
「学生ですよ」
「学生がこんな時間に何をやってるんだよ」
「散歩してたんですよ」
「この辺に住んでるのか?」
「いや、ここから歩いて1時間くらいのところに」
「なんでそんなところに住んでるやつがここにいるんだよ」
「散歩ですよ」
「そうか。変わってるな」

「それにしても不思議だな」
「何がですか?」
「おれがこんなふうになっているところに、青年が偶然いて、今こうやって話してる訳だろ。なんでだろうな、なんでこうなったんだろうな」
「僕が散歩をしていて、そこにあなたが来て、転けそうになってたから、ですよ」
「不思議だな、不思議だよな、なんでだろうな。本当に不思議だ。おれは君にさ、君に興味があるよ。興味が。ラーメンでも食べながら話したりとかしたいよな」
「今からですか」
「もう遅いだろうが、今度だよ、今度。君とご飯に行きたいよ」
「いいですよ」
「おれは君に興味があるけど君はいいのか?君はおれとご飯に行く理由がないだろ」
「ないけど別にいいですよ」
「なんでだよ、本当に行きたいのか?」
「本当に、と言われるとあれですけど、断る理由はないですよ」
「君は本当に変わってるな」

「それで君はなにをやっている人なんだ?」
「学生です」
「学生か。学生がこんな時間になにやってるんだよ」
「散歩です」
「今何年生なんだ?」
「5年生です」
「なんだよ、それは」
「6年あるんですよ」
「そうか、それで君はなにになるんだ?」
「たぶん医者です」
「君は医者なのか?」
「いや学生ですよ」
「研修生か?」
「そんなかんじです」
「そうか、君は医者だったのか!」
「学生ですよ」
「学生なのか?」
「今は学生です。それで卒業したら医者になるんですよ」
「君は医学生か!」
「そうですよ」

「君が持っているそれはなんだ」
「これ?これはキックボードですよ」
「なんだよそれは」
「ここに乗って蹴って移動するんですよ。シューって。気持ちいいですよ」
「楽しいのか?」
「そりゃあもう」
「医学生はみんなそういうものに乗るのか?」
「知らないですけどあんまり乗らないんじゃないですか。僕の大学では僕だけですね」
「いや理解できないね。理解できない。おれにはその感覚が全くわからないよ」
「階段のぼれますか?」
「大丈夫だよ、大丈夫」
「本当ですか?」
「ちょっとおしっこしていい?おしっこ」
「ここではやめてくださいよ」
「わかってるよ」
男は蛇行して歩いて、少し先のマンションの駐車場に消えた。このとき咄嗟に帰ろうと思ったが、一人で階段を昇ったら転けるんだろうとか、ここで帰ったら男がかわいそうとか、ご飯行く約束してから帰ろうとか、を思ってやめた。

「はぁ、すっきりした」
「階段昇れそうですか?」
「大丈夫だよ、大丈夫」
「一緒に昇りましょう」
「大丈夫だよ、大丈夫」
「じゃあ見てます」
「のぼれるよ、のぼれる」

一段ずつ昇りはじめたがもちろんよろけ、体を支えることになった。なんとか階段を昇りきったところで男が手を洗っていないことを思い出して不快になった。

「君とご飯食べながら話したいな、話したい。君に興味があるよ」
「電話番号教えたら連絡とれますか?」
「そうだな、教えてくれよ」
「携帯持ってますか?」
「これか?」
ポケットからiPhoneじゃないスマホを取り出した。
「それで僕の番号登録すればたぶん連絡とれますよ」
「これ使い方がわからないんだよ」
「ううん」
「家の番号ならすぐ言えるよ」
「いや思ったんですけど、家にかけてもそのとき覚えてますかね?明日起きたら全部忘れてるんじゃないですか?」
「そうだろうな。明日には全部忘れてるよ。君のことも全部忘れてるだろうな」
「ですよね。じゃあお元気で」
「ありがとうな」
男が出した右手と握手をした。

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