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子猫の鳴かない台所

実習が終わって帰路につく。

外はちょうど雨が上がったところ。日が落ちかかっても空気はじめじめと蒸し暑いまま。体はどこを触ってもベタついた。

よくある梅雨の夕方。
電車は座ると揺れるたび隣の人のベタついた腕が触れて不快になる。そんなことだから、雨があがっても気分がよくなることはなかった。

家に着くとまだ遅いわけでもないのに翌朝の早起きを思って鬱々とした。夕方は暗くなっていくから暗いままの夜よりも気を沈ませる。パンくずが乗ったままの皿とタッパーを洗う。替え時をとっくにすぎたスポンジは泡まみれのままシンクに置いた。
そこにふと台所の換気窓から猫の鳴き声が入ってきた。


ベランダに出て下をみると大きい猫が1匹、小さい猫が2匹いた。アパートと隣の家との間は、ブロック塀があるだけで誰も立ち入らない。そこが彼らには安全らしかった。

小さい猫が大きい猫の乳を飲んでいるから、大きいやつは小さいやつの「親」で「メス」だと ー途端に名前をつけたくなった。しかし考えてもポチ以外に思いつかない。すると「ポチ親」「ポチ子A」「ポチ子B」? そもそも仮に自分で名前をつけても、既に誰かがつけていたら猫にも名付け親にも申し訳ないことになるか、ならわざわざ考えても意味がないかー わかった。

だらりと横たわる大きいやつのお腹の辺りで、子猫たちはどんどん乳を飲んでいる。大きいやつはときどき立ち上がって逃げるふりをする。子猫は振り回される度に追いついて、すぐにどんどん乳を飲む。途中から大きいやつの遊びに付き合わされてるみたいで、可笑しくなった。

台所に漏れる鳴き声を聴きながら昨日と同じ野菜のスープを飲む。
昨日と同じ味のスープ、昨日の分より少し魚が多い。アニメの歌いわく猫は魚を食べるらしいが、野菜も食べるんだろうか。猫にあげるなら上から投げることになる。さすがにそれは下の人に悪いと思ってやめた。


寝支度を終えてベッドに横たわる。
日を跨いでも子猫はずっと鳴いていた。
鳴き声は近づいたり離れたり。
見下ろしたらきっとどこにいるかわかる。
気づくと、猫は頭の中で、
いつもベランダからみる絵の中で、
跳んだり跳ねたり、行ったり来たりしていた。

それから子猫の鳴くのが続いた。
帰るといつも鳴いていた。
雨が降っても鳴いていた。
夜になっても鳴いていた。
いつまでも経っても鳴いていた。
横の人がシャワーをするのと、
上の人が天井を踏みつけるのと、
部屋の隅で冷蔵庫がうなるのと、
それらと同じように子猫は鳴いて、台所のBGMの一つになった。

そうして特に気にすることもなくなっていった。あんなに愛おしかったのに、慣れるとただの生活音になる。



ざーざー、
どんどん、
ぶーぶー、
にゃんにゃん。


にゃんにゃん、
ぶーぶー、
どんどん、
にゃんにゃん。
(にゃんにゃん)


にゃんにゃん、
ぶーぶー、
どんどん、
どんどん。
(いつまで起きてるんだろう)


どんどん、
ぶーぶー、
ざーざー、
ざーざー。
(こんな時間にシャワーか)


どんどん、
ぶーぶー、
ぶーぶー、
ぶーぶー。
(いつか静かなやつを買おう)


ざーざー、
どんどん、
ぶーぶー、
どんどん。
(まだ起きてるのか)


ざーざー、
どんどん、
ざーざー、
ぶーぶー。
(なかなか寝付けないな)


どんどん、
ぶーぶー、
どんどん、
(?)

あれ、猫は?
ポチ親、ポチ子A、ポチ子Bはどこにいった。
「なくしてはじめて気づく」なんてよくきく言葉が浮かぶ。

いやいやそうだ、そうだった。
元々ここは、子猫の鳴かない台所。



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