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自由意志はない

「これからの創造性」を考えるシリーズの続き、前回の自由主義の終わりのついての話の最後に自由意志についてふれました。いきなり結論ですが、

自由意志はない

いろいろな視点がありますが、脳科学や神経学など科学的な解釈によると「ない」。存在しないのです。幻想なのです。

「ちょい待て、自分の意志で自由に選べるんだけど。思考も動作も。明らかに自由意志があると感じているのに、自由意志はないってどういうこと?」

そう思う方も多いでしょう。しかし、自由意志を感じるのはただの錯覚である、というのが今の科学の結論なのです。

自由意志をさがす実験

以前、自由意志についての話で話題になったWiredの記事を引用しながら詳しく説明します。

上記記事で元となっているのは、1983年のリベットによる「運動準備電位」の研究です。リベットは、人間が腕を動かそうと意思決定して腕が動くまでの過程を電気的に測定しました。

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図のように、動作までのBとCの間に0.2秒の時間差があることだけでなく、その前のAとBの間の0.35秒の前に無意識下で意思決定がされていることが測定されました。つまり、Bの意識的な意志決定の前に無意識下で電気信号が起きている、という発見でした。

で、Wireの記事にある実験2015年の実験では何が示されたか。
BとCの間の0.2秒より前なら動作の中断することができる、ということです。

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この動作の中断という意識的な意思決定が「自由意志は存在する」証拠である、という主張です。

しかしこの主張、素人でも反論できそうです。その意思決定はどこから来たのか?

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意識的な決定の前の無意識下の電気信号から来ている、という推測への反証がなければ、0.2秒といえ自由意志があるとはとても納得できません。

科学界全体でも、自由意志は存在する派はいるようですが、見解としては自由意志は存在しない派が優位を締めていると言われています。[要出典]

感情や欲望に自由はあるのか?

意思決定のような思考だけでなく、同様に感情や欲望に自由はあるのでしょうか?まぁ、タイトルに疑問形が来た時は必ずその否定が結論になりますね。

感情や欲求には、思考以上に自由はありません。

「ボタンを押す」という思考を「押さない」にくつがえすのと同様に、「リンゴが好き」という感情を「嫌い」に、「リンゴが食べたい」という欲求を「食べたくない」にくつがえすことはできる人はいるのでしょうか?

若くて美しく健康的な女性に沸き起こる性的欲求と、不潔で醜い中年男性にこみ上げる生理的な嫌悪を入れ替える、なんてことができたら社会はどれだけ平和になるでしょう。

感情や欲求は意思決定のA→B→Cに以上に割り込むすきがないのです。

だから「好きなことして生きていこう!」みたいな考え方をよく聞きますが、それに従って仕事を選んだりしていいものでしょうか? 

「好き」という感情の欲求に自由はなくコントロールできません。好きなことをして生きていくことが幸せというなら、幸せはコントロールできないことになります。

「好き」という感情を行動という意思決定のきっかけくらいに考える方が良さそうです。行動の意思決定はコントロールの余地があることは見た通りです。その意思決定は無意識からやってきて自由意志ではないのかもしれませんが、それでも幸せはコントロールできた方が良くないでしょうか。

このように思考、感情、欲求への理解は、創造性だけに限らず生き方全般に関わってきますので、これからますます重要になっていきます。

まとめ

自由意志はない、についての説明でした。
思考も感情も欲求も、なんの自由もない脳神経の電気的・生化学的なゆらぎにすぎない、ということが理解いただけたのではないでしょうか。

自分の中で何がコントロールできて何がコントロールできないのかの理解は「これからの創造性」にとって不可欠になります。内なる声に従い自由意志のおもむくままに創造する、という「これまでの創造性」の幻想から離れる必要があるからです。

しかしながら、
「無意識下から意思決定は来ていることはわかった。じゃあこの自由意志で意思決定していると感じている自分というのは何なんだ?」
と納得できない方もいると予想します。

というわけで次は「自分」「自己」について解説していきます。
「これからの創造性」において、自分というものの解釈は大きく関わってくるので、是非ともお付き合いください。


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