見出し画像

一口エッセイ:ゲームシステムとテキストの調和と『YU-NO』

 拙作『NEEDY GIRL OVERDOSE』のSwitch版発売と、それに伴うSteam版アプデまであと一週間もなくなったので、ゲームの話をします。
 まず、自分はちょっぴり本を読むのが好きな少年で、その派生で当然のようにノベルゲームにハマり、それから美少女+文学を組み合わせた「美少女ゲーム」というジャンルに、青春を捧げたと言っていいほど夢中になりました。
 数々のヒロインたちをちぎっては投げるように攻略し続けるバーサーカーと化していたころ、さらなる名作へ挑戦するため、高校生で初アルバイトを始め、ついにセガサターンを購入。それからサターンの名作ギャルゲーをブックオフで探しては攻略していく日々へ。
 『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』『EVE burst error』『慟哭そして・・・』
『野々村病院の人々』など、クリックでただテキストを読み進めるだけでなく、どれもに一筋縄でいかない「ゲーム性」が仕込まれており、今まで文字を追いかけ続けてきた自分にとって、逆に革新的だったのです。時代的にはサターン→00年代テキストゲームなわけですが。


 特に、YU-NOのゲームシステムには衝撃を受けすぎてカエルのようにひっくり返りました。
 マルチエンディングでのルート分岐がマップとして可視化され、その上で「神の視点」で現在自分がシナリオのどこにいるかがプレイヤーに見えることに「意味」と「理由」が用意されている。たとえば、シナリオチャートがゲーム中で参照できる作品はごまんとありますが、チャートが見えることに「理由」はほぼ無いでしょう。とりあえず攻略の効率化のために親切でつけてくれているだけで。が、YU-NOはこのシステム自体がゲームの設定の根幹を成している。
 つまり、「美少女を攻略していく楽しみ」と「テキストを進めていく文学性」に「魅力的で唯一性のあるゲームシステム」が見事に調和されているのです。これは美少女ゲームとしての究極だと、本作がノベルゲームの形として最も美しいと感じたのですね。

 YU-NOの素晴らしい点は、これだけではない。軽薄ながらキメる時はキメる理想のギャルゲー主人公や軽快なテキストもさることながら、ドット絵によるグラフィックの美麗さも重要。特に、90年代らしさ溢れるミステリアスな少女・神奈の立ち絵。この儚げな雰囲気はドットの鮮やかさならではと感じる。そもそも、ゲーム性とテキストの融合を目的とした際、テキストを読むこと以上に「ゲーム」であることを意識させるために、ドットでのグラフィックはあまりに正しすぎる。まあこれは、僕の懐古趣味もあるとは思いますけどね。
 そういった価値観を植え付けられた僕は、いつしか自分がゲームを企画するなんて日が来るのであれば(もちろん高校生の頃は、そんな日がくるなんて想像すらしなかったけど)、ゲームシステムとドット絵は必須条件だと確信しており、約10年を経た26歳の時にようやく、ニディガの企画書として実現したのです。
 と考えると、そこに女児アニメ要素の「かわいい」が加わった超てんちゃんが生まれる流れって、僕の人生からすると必然のように思える。結局、人は子供の頃に好きだった概念に囚われて続けるのだなぁ。ついでに、僕はYU-NOやEVEでの「自分の意思(コマンド選択)」で夜の街を徘徊し、怪しい人物たちと交流していくドキドキがとても好きだ。テキストをクリックするのでなく、自分がボタンを押して夜の街に飛び込む。それが子供の頃の自分にとってすごく大人びた魅力を感じたのですね。あの感じを自作でも表現できていたら嬉しいな。
 そういった事情で、今でもセガサターンを手放さずに今もテレビと接続しているのですが、実はHDMI変換機の給電をSwitchのUSBからとっている。任天堂の最新機種からセガのレトロゲーへ電気を受け流す行為、どことなく背徳的でゾクゾクするぜ。オタクの昔話でした。


 毎日の日記をまとめた同人誌や商業エッセイ集をよろしくね♪

サポートされるとうれしい。