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映画「あちらにいる鬼」ここまで来たら不倫批判とか言えない関係

映画の感想でも書いてみようと思う。
井上荒野の小説「あちらにいる鬼」はとても好きな小説で、映画化ということで寺島しのぶも好きな俳優なので是非と思って観に行った。
メイン画像は映画の写真じゃなくて、原一男監督「全身小説家」の一部で本作モデルの井上夫妻と瀬戸内寂聴さんの貴重な3ショットがニュースで出ていたのでおかりした。

悪くはないんだけど、悪くないのは役者のパワープレイ。内容はというと、もっと白木篤郎(井上光晴)に振りまわされた女二人=笙子(妻)と寂光(寂聴)が篤郎が死んだあと、そこはかとない気づかいと交流=友情ともとれる関係がメインで描かれるべきで、寂聴さんが尼さんになることがメインじゃないんじゃないよなと、それはとても重要なファクターだけれど、井上荒野が描いたのはその後の彼女たちの関係が常人理解不能であるが素晴らしいのではないかということで。監督が廣木隆一で脚本が荒井晴彦という昭和のおじさん(おじいさん?)たちということで、なんか篤郎(井上光晴)を自分たちに重ねて、自分たちを巡った女たちを思って描いてないか?と思ったのですよ。

この原一男監督のドキュメンタリー映画「全身小説家」の主人公でもある井上光晴という作家は硬派な左翼作家なんだが、昭和文壇アルアルの女たらしで嘘つきの正真正銘のクズなんだな。(井上荒野もインタビューで父は今でいうところのクズだと言っていたのを何かで読んだ)それで、こんなやつ、そこらにいっぱいはいないんだが、私は一人知ってるんだわ。そっくりな人。その人もクリエイターなんだけど、嘘つきというより、フィクションと現実の境目が危ういのがほんとそっくり。だからあーわかるわかると思いながら見てしまったので常人より理解は深いのかもしれない。

今たいがいの人は、映画に共感を求めるんだけど、私は何か違う世界を見せてくれるものとして自分の中では映画を機能させているので、一切共感できないということでバッサリ切られる(共感が必要な類の内容の映画ももちろんあるけど)映画はちょっとかわいそうに思うんだなー。
みんな決めつけて世界を狭めているというか。

そういう視点から、今この不倫を外野がごちゃごちゃいう時代にこの作品をあえて作った制作者の人たちは攻めてるなと思ったりもする。この3人結局同じお墓に入っているというのもニュースで出ていたし、そこまで一緒になるんだったらもうトヤカク言えないじゃないね。まして、井上荒野は娘さんで寂聴さんに取材して書いてるんだから。作家たちの業だわ。それも映画に描いたらよかったのにね。


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