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東京都心の爆弾テロ、43年後の真実③

1974年8月30日に東京丸の内で起きた三菱重工ビル爆破事件。警視庁公安部の古川原一彦は五ヶ月間、不眠不休の尾行、張り込みの末、ついに、東アジア反日武装戦線「狼」を追い詰めた。逮捕の瞬間いったい何が起きたのか?そして、その顛末は屈辱的なものだった。

東アジア反日武装戦線のメンバーの一斉逮捕当日、1975年5月19日は朝から雨だった。極秘にしていたはずの捜査情報は漏れていた。 

<爆弾犯、数人に逮捕状>

 産経新聞朝刊にこんな見出しが躍ったのだ。

 「恥ずかしい話だが、俺は佐々木がとっている新聞がどこなのかを把握していなかった。産経に記事が出たとき、『佐々木は産経をとっているのか?』と上司に聞かれて、答えられなかった」(古川原)

 古川原は5人の逮捕要員とともに佐々木規夫が住むアパートから梅島駅に向かう道に、サラリーマンを偽装して張り込んでいた。逮捕要員以外に15人ほどの防衛要員も周辺に配置されている。しかし、この日に限って佐々木がいつもの時刻に出勤しない。 

「俺は失敗を取り返そうと必死だった。もしかして佐々木が産経の記事を読んでしまったのではないか。ヅかれていたら(気づかれていたら)終わりだと思った」(古川原)

 猛烈な不安に襲われ、動揺し始めたとき、佐々木がようやくアパート敷地を囲む塀の引き戸を開けて出てきた。しばらく佐々木を尾行し、古川原は傘を投げ捨てて叫んだ。 

 「佐々木規夫、逮捕する!」

 後ろから佐々木を羽交い絞めにした。捜査車両に佐々木を押し込んで、両脇を捜査員が挟んだ。古川原は佐々木の右側に座り、逮捕状を執行した。

 古川原はその瞬間をこう述懐した。

 「爆弾を爆発させるのではないかとか、凶器を持っているのではないかとか、いろんな不安はあった。でも、佐々木は一切無言だった。羽交い絞めにしてから車に乗せるまでまったく抵抗しなかった」

 そして身体捜検したときに、小銭入れが出てきた。古川原がその中を見ると、白いカプセルが入っている。 

 「これはなんだ?」

 古川原が尋ねた瞬間、佐々木は手を伸ばしてカプセルを掴んだ。古川原はそれを慌てて叩き落とした。服毒自殺のための青酸カリだった。


 佐々木の住むアパート1階の部屋を捜索し、押入れの床板をはがすと、地下室が出てきた。コンクリで壁を固め、茶箪笥まで設置されている爆弾の製造工場だった。佐々木らは新たなテロを起こす準備を着々と進めていたのである。古川原は地下爆弾工場の存在にまったく気付いていなかったという。

 「コンクリの粉のようなものを運び込んでいるのは気付いていたが、まさか地下室を作っているとは思わなかった。だって、地下に穴を掘れば外に土を運び出すはずじゃないか。それはなかったんだ。調べてみると佐々木は床と地面の空間に、掘り起こした土をおしやっていた。でもこれは俺たち視察チームの大失態だった」 

実は、古川原たち「極本」の捜査は、警視庁内でも極秘で進められていた。「極本」とは別に、三菱重工ビル爆破事件の刑事部・公安部の合同特別捜査本部が、丸の内警察署に設置され、捜査員たちは捜査に奔走していた。しかし警視庁 公安部は、刑事部長をトップとする特捜本部にすらまるで知らせず、東アジア反日武装戦線のメンバーら8人を逮捕してしまったのである。1人は逮捕後に服毒自殺、2人を取り逃したが、市民を恐怖に震えさせた秘密テロ組織を一網打尽にされた。 

だが、話はこれで終わらない。この3ヵ月後、古川原は辛酸を舐めることになったのだ。「いったい、何なんだ」1975年8月4日、日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠、領事らを人質に立てこもる事件が発生した。「クアラルンプール事件」だ。日本赤軍は警視庁公安部の古川原一彦たちが逮捕した佐々木規夫ら獄中犯の釈放を要求、応じなければ人質のアメリカ領事を処刑すると通告した。 


日本政府は要求に屈した。超法規的措置による釈放を決断し、佐々木ら5人の獄中犯を羽田空港から飛行機で出国させてしまったのだ。

 古川原は、当日の衝撃を、こう表現した。

 「釈放されたという事実を聞いたときは呆然とした。いったい何なんだろう? という感想しかなかった。お偉いさんたちの、明らかに間違えた判断で、5ヶ月間の捜査が水の泡になったんだからね。でもこれだけじゃ終わらなかった」

 古川原はその2年後の「ダッカ事件」で、再び歯軋りをすることになる。日本赤軍のメンバー5人が、インド・ムンバイ空港を離陸直後の日本航空機をハイジャックしたのだ。ハイジャック犯の中には、超法規で釈放され、日本赤軍に合流した佐々木も含まれていた。乗客142人、乗員14人を乗せた日航機は、バングラデシュのダッカ空港に強行着陸。日本赤軍は獄中犯9人の釈放と、身代金600万ドル(当時の日本円で16億円)を要求した。釈放リストの中には東アジア反日武装戦線の大道寺あや子ら、佐々木の仲間も含まれていた。 


このとき、古川原は警部補に昇進して、空港警察署の警邏係長になっていた。上司は古川原にこう言った。 

「身代金が羽田空港の税関所長室に届く。おまえは連続企業爆破事件に関っていたのだから、金額を数える場に立ち会って来い」 

日本政府は2度目の超法規的措置を決断したのである。しかし、それはあまりに酷な命令だった。税関所長室に運び込まれたのは、アメリカから緊急輸送された400万ドル。犯人の要求どおり古いドル紙幣だった。古川原は税関職員たちが、紙幣を床に広げて数える様を呆然と見守った。 

「佐々木を逮捕した俺が、佐々木の要求に応じて身代金を数えるなんて皮肉なものだった。どっかのお偉いさんが『人命は地球より重い』とか言っていたけど、テロリストを逮捕した俺たちからすれば、日本はこれでいいのかという思いしかなかったよ。大道寺たちが飛行機に乗っていくのを税関所長室から見ていたんだけど、何もできなかった。むなしかったなあ」  (古川原)

古川原は執念の男だった。拓殖大学語学研究所の、アラビア語の講座に通い始めたのだ。日本赤軍がいるレバノンに行くためである。しかし、その思いは実らなかった。アラビア語の講義を修了したものの、古川原が赤軍ハンターとして中東に渡ることは許されなかった。

 話を、今年の5月に戻そう。二人で居酒屋で飲んだあと、古川原は私を自宅に招いた。「見せてやりたいものがある」と言い、押入れの上の段から、新聞紙に包まれた紙の束を取り出した。そこには昇任試験の合格証書や警視総監賞に混じって、「賞詞」と書かれた賞状があった。

昭和50年12月20日付、連続企業爆破での功労をたたえる警視総監賞だった。しかも「賞詞特級」という最上級の総監賞だ。だが、この賞が授与されたのは、佐々木が超法規的措置で釈放された4ヵ月後のことだった。

 古川原は賞状を手にとってこう呟いた。

「こんなもの後生大事にとっておいて、俺も馬鹿だよねえ。佐々木は釈放されちまったのに……。死ぬ前にもう一度、佐々木と話をしたかったなあ」 

 古川原はこういって、賞状をしまい始めた。  

                               了