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横浜美術館 ヌード展でのもやもや

※以下は2018年6月6日のブログです。

当時の私のヌード理解奮闘記として温かい目で見ていただけますとありがたいです。日々勉強。

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先週の土曜日は遠出して、

横浜美術館までヌード展を見に行くなどしておりました!

happiness......


ほんとは東京のお友達に

一緒に行こうと誘われていたですが、

なんだかんだ一人で行くことになり

一人でのびのび鑑賞しておりました。


私は芸術とか美術などに対して一般的な知識レベルをクリアしているか分かりませんが、

素人なりに考えたことや

人と話したことを整理していきたいと思います!



横浜美術館のヌード展


横浜美術館で現在開催されているヌード展の概要です!

既にご存知の方は読み飛ばしていただいても大丈夫です。

ヌード――人間にとって最も身近といえるこのテーマに、西洋の芸術家たちは絶えず向き合い、挑み続けてきました。美の象徴として、愛の表現として、また内面を映しだす表象として、ヌードはいつの時代においても永遠のテーマとしてあり続け、ときに批判や論争の対象にもなりました。
本展は、世界屈指の西洋近現代美術コレクションを誇る英国テートの所蔵作品により、19世紀後半のヴィクトリア朝の神話画や歴史画から現代の身体表現まで、西洋美術の200年にわたる裸体表現の歴史を紐ときます。フレデリック・ロード・レイトンが神話を題材として描いた理想化された裸体から、ボナールらの室内の親密なヌード、男女の愛を永遠にとどめたロダンの大理石彫刻《接吻》[日本初公開]やシュルレアリスムの裸体表現、人間の真実に肉迫するフランシス・ベーコン、さらにはバークレー・L・ヘンドリックスやシンディ・シャーマンなど、現代における身体の解釈をとおして、ヌードをめぐる表現がいかに時代とともに変化し、また芸術表現としてどのような意味をもちうるのか、絵画、彫刻、版画、写真など約130点でたどります。
2016年のオーストラリアを皮切りにニュージーランド、韓国へと国際巡回する本展。待望の日本上陸です。

引用:横浜美術館 ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより


本展では、英国のテート美術館のコレクションが

物語とヌード —— THE HISTORICAL NUDE
親密な眼差し ——THE PRIVATE NUDE
モダン・ヌード ——THE MODERN NUDE
エロティック・ヌード ——THE EROTIC NUDE
レアリスムとシュルレアリスム ——REAL AND SURREAL BODIES
肉体を捉える筆触 —— PAINT AS FRESH
身体の政治性 ———BODY POLITICS
儚き身体 ——THE VULNERABLE BODY


以上のテーマに分けて展示されていました。

そして本展の見どころは、

1. テーマは「ヌード」。西洋の芸術家たちの挑戦の軌跡を追う。
「ヌード」は西洋の芸術家たちが絶えず向き合ってきた永遠のテーマです。しかし、「ヌード」をテーマにした大規模な展覧会は前例が少なく、挑戦的な試みです。本展は、この難しいテーマに意欲的に取り組み、ヴィクトリア朝から現代までのヌードの歴史を辿ります。
2. 近現代美術の殿堂、英国テートからヌードの傑作が集結。
1897年の開館以来、世界屈指の近現代美術コレクションと先進的な活動で常に美術界をリードしてきたテート。その至高の作品群よりヌードを主題とした作品が集結します。ロダンの大理石彫刻《接吻》をはじめ、ターナーが描いた貴重なヌード作品や、マティス、ピカソ、ホックニーなど19 世紀後半から現代まで、それぞれの時代を代表する芸術家たちの作品が出品されます。
3. ロダンの大理石彫刻《接吻》が日本初公開!
ロダンの代表作であり、男女の愛を永遠にとどめた《接吻》。情熱に満ち、惹かれ合うふたりの純粋な姿が、甘美な輝きに包まれています。「恋愛こそ生命の花です」*、こう語るロダンにとって、愛することは生きることそのものであり、また制作の原点であったといえるでしょう。ブロンズ像で広く知られる《接吻》ですが、高さ180センチ余りのスケールで制作された迫力の大理石像は世界にわずか3体限り。そのうちの一体がついに日本初公開です。
*高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』より

引用:横浜美術館 ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより


ヌード展の概要は以上の通りです!

では次に、私が本展で考えた事を書いていこうと思います。


ヌード展で考えていたこと

私がヌード展に興味を持った理由は、

写真家の相澤義和さんの作品が好きで、今回のヌード展に行くことで

これまで以上に相澤さんの作品を楽しめるようになるのではないか、

もっと自分の世界を広げられるのではないか

と考えて仙台から横浜まで足を延ばしました。👣

(他に都心部に用事があったのも理由の一つですが)



そしていざ本展の作品を見ながら思ったことは

「肌が光を浴びてすごく柔らかそうで美しい」

「光や影をこんなに細かく表現していてすごいなぁ、よく見ているんだなぁ」

「一口にヌードといっても人の体ってやっぱり違いがあっていろんな表情があるんだなぁ」

「こんなにも女性の体って美しいんだからそれだけでも私ももっと自信や誇りを持とうかな」

「なんかもうもっと裸で生活しようかな」

「私の場合は親しい相手にしか見せない姿だから裸ってなんだかそれだけで愛を感じてしまうな」

「でも画家とモデルが不仲な場合もあるのか」(作品の解説を読んで)

「絵を描くにあたってどれだけ裸を凝視されただろう、どんな表情で見られていたんだろう」

「私が一人でこんなところに来ているからこんなにおじさんたちがちらちらみてくるんだろうか」

など、ぼんやりと考えたりしていました。


ヌード作品そのものはどれもとても美しく、

洗練された美や自分にはない視点、メッセージ性の強い作品など

あらゆるヌードが展示されていて、

自分の知らない事を知れたような気がしました。


また、ヌード展で特に私が気になった展示が

親密な眼差し ——THE PRIVATE NUDE
エロティック・ヌード ——THE EROTIC NUDE
身体の政治性 ———BODY POLITICS
儚き身体 ——THE VULNERABLE BODY
以上の4つのテーマでした。


私は当初、ヌード展に対して持っていたイメージは、

特に『エロティック・ヌード』に展示されているような大胆な性的表現や、

『親密な眼差し』として展示されていたような、

愛情を感じられるような描写のイメージが強かったです。


驚いたのが、『身体の政治性』と『儚き身体』の展示で、

確かにヌードというものを考えるにあたって、ヌードというものの特性上、

男性であること、女性であること、両者が対等であること

などの要素がそれこそ‘‘露骨‘‘に出てきてしまったり、

ヌードに対して感じる‘‘生命‘‘というものや‘‘豊かさ‘‘などが

老いることで変質してゆく事


終盤の展示は途中感じていた多幸感などの陰は消え、

自分がヌード展に期待してきたことがヌードというものに対して無知であったこと、

ヌードというものを真摯に考えていなかったことに気が付きました。


そもそも本展示の冒頭では、

ヌードは複数の女性の裸体から理想的な美しさを描いたものであると説明されていました。

ヌードは作られたもので、裸という自然の状態とは違うと人から教わったことがります。

私はヌードで多く描かれている女性でありながら、

展示を見ているときに感じた知らない人からの視線が

ヌードが作られる過程で向けられていた可能性がある事などを

これまでは考えてこなかったことに気が付きました。


私はヌードをどう見ればいいんだろうと思いながら、

横浜美術館のカフェでサンドウィッチを無心で食べていました。


ヌード展が終わってから考えたこと


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ヌード展が終わってから、

ヌード展を紹介してくれた友達や大学のゼミの教授や友達に

展示を見て感じたことを話すと、私のもやもやはだいぶ消化されました。


本展では200年の近代芸術におけるヌードが展示されていたこと

かつてのミロのヴィーナスやダビデ像などの、本展の作品以前古代の美術・芸術に関して

例えばギリシャ神話をモチーフにした作品では

女性のヌードばかりではなく男性の肉体美が表現された作品なども多く存在しており、

私が悲観している女性の裸体ばかりがあふれていること、女性ばかりが脱がされている

などの心配は私の思い込みによる面も大きいのではないかという意見を頂きました。

(私が女性のヌードばかり見ていたからこのような考えに至ったのかも)

ヌード=女性の裸体で、

芸術という言い訳の下に女性が男性にいいようにされている

という私の考えは、少し限定的すぎることに気が付きました。


最近では#Metoo運動などが活発に行われ、

個人的には私は女の子から女性になり、

少しずつフェミニズムの存在意義を認識し始めた今日この頃なのですが

なんといいますか……私にはさじ加減が難しい問題のように思えまして

まだまだ問題認識が甘い私ではあると思いましたが、今回のヌード展をきっかけに

私なりに性がフェアであるためにどのような心構えや振る舞いが必要か考えていきたいとおもいます!


最後は全然考えがまとまりませんでしたが😢

稚拙な感想を読んでいただきありがとうございました!


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